菖蒲谷村(読み)しようぶたにむら

日本歴史地名大系 「菖蒲谷村」の解説

菖蒲谷村
しようぶたにむら

[現在地名]橋本市菖蒲谷

三石みついし山の南麓にあり、東南は小原田おはらた村。高野街道御幸道(京路)が通る。「続風土記」に「古此村の谷菖蒲多き歟又は他所よりは宜きか村名是より起れるなるへし、村中地蔵寺の巽に当りて菖蒲池といふ池あり、今は名のみにして菖蒲はなし」とみえ、小名に田和たわがある。嘉元四年(一三〇六)七月六日付の紀行友屋敷田畠処分状(西光寺文書)によれば、相賀おうが庄の「シヤウフ谷タハノカキウチ」にあった行友の屋敷地・田畠が紀千松女に宛行われ、千松女は元弘三年(一三三三)一一月二二日の紀千松女田地売渡状(同文書)でその一部を山田やまだ村仏物(大聖不退寺)へ売渡し、これは貞和五年(一三四九)七月二八日には柏原かせばら西光さいこう寺仏物として山田村人から西光寺へ売却されている(「山田村人等田地売渡状」同文書)


菖蒲谷村
しようぶだにむら

[現在地名]龍野市揖西町菖蒲谷いつさいちようしようぶだに

上新宮かみしんぐう村の北に位置し、揖西郡に属する。北は善定ぜんじよう(現新宮町)、西は赤穂郡釜出かまで(現相生市)。村域は古子ふるこ川の最上流域の山中に立地する。慶長国絵図に「せうぶ谷」とみえる。領主変遷北龍野村と同じ。寛永一三年(一六三六)の龍野領村々高辻帳(八瀬家文書)には「菖浦谷村」とみえ、池田輝政による内検地高三八石余、高三一石余。正保郷帳では高三一石余(田方のみ)。宝暦年間(一七五一―六四)の龍野藩領分明細帳(矢本家文書)では反別は田方一町二反余・畑方五町七反余、本免一ツ九分・新一ツ一分、山札役銀八匁八分、家数一三。天保郷帳では高四四石余。慶応二年(一八六六)の家数一七・人数五六(田中家文書)


菖蒲谷村
しようぶだにむら

[現在地名]武生市菖蒲谷町

山麓に沿い、東はほり村、南は谷を越えて土山つちやま村に通ずる。中世山干飯やまかれい保の地。天正一九年(一五九一)三月一四日付菖蒲谷四郎兵衛等連署山地取極証文写(願成寺文書)に村名がみえ、当村と土山安戸やすどの三ヵ村が山境を定め、持山の多い当村に対し土山・安戸から年貢として毎年米五斗を納めることを取決めている。

慶長三年(一五九八)九月の越前府中郡在々高目録に高一九三・〇八九石、先高一六八石余・出分二四石余とある。


菖蒲谷村
しようぶやむら

[現在地名]小野町菖蒲谷

赤沼あかぬま村の西、黒森くろもり川中流域の丘陵と山地に立地。集落は同川両岸の狭長な平地点在。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に菖蒲谷とみえ、高三三八石余、田丸氏の知行地。以降の領主の変遷は小野新町おのにいまち村に同じ。寛永四年(一六二七)の領内郷帳写(東北大学附属図書館蔵)では高三三八石余。


菖蒲谷村
しようぶだにむら

[現在地名]福井市菖蒲谷町

丹生山地の北縁に東西に細長く延びる砂地の小丘陵上に位置する。村名は慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図にみえ、高三五八・二二三石。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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