藤原基俊(読み)フジワラノモトトシ

デジタル大辞泉 「藤原基俊」の意味・読み・例文・類語

ふじわら‐の‐もととし〔ふぢはら‐〕【藤原基俊】

[1060ころ~1142]平安後期の歌人歌学者歌道では、伝統派の中心人物で、源俊頼対立した。万葉集次点訓点)をつけた一人。藤原俊成の師。編著新撰朗詠集」、家集「基俊集」など。

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精選版 日本国語大辞典 「藤原基俊」の意味・読み・例文・類語

ふじわら‐の‐もととし【藤原基俊】

  1. 平安末期の歌人、歌学者。右大臣俊家の子。官は従五位上左衛門佐で終わった。「万葉集」に次点(訓点)をつけた一人。古歌を重んじた保守的傾向作風で、源俊頼と並び称された。家集に「基俊集」があり、「新撰朗詠集」などの編著もある。康治元年(一一四二)没。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「藤原基俊」の意味・わかりやすい解説

藤原基俊
ふじわらのもととし
(1060―1142)

平安後期の歌人。生年には異説がある。右大臣俊家の子。祖父は右大臣頼宗(よりむね)(道長の子)。名門の出なのに従(じゅ)五位上左衛門佐(すけ)に終わったのは、学識に誇って高慢であり、公事(くじ)に怠惰でもあったからと推測されている。『堀河院(ほりかわいん)百首』(1105ころ成立)の作者の1人。歌学に詳しく、万葉次点の1人。1138年(保延4)出家、法名覚舜(かくしゅん)。歌論は、「元永(げんえい)元年十月二日内大臣忠通(ただみち)家歌合」などの判詞(はんし)に見るように、古歌の姿を重んじ、歌病を避け、伝統的立場を重んじており、新しい歌風を求める源俊頼(としより)と鋭く対立した。その和歌は、『堀河院百首』や歌合類、家集『基俊集』(三系統)、『金葉集』以下の勅撰(ちょくせん)集にみえる。歌論を反映して伝統的な歌風であるが、また「夏の夜の月待つほどの手すさびに岩もる清水いくむすびしつ」のように、時代の影響下に、叙景歌の流れを受けた新しい感覚のものもみえる。『相撲立詩歌(すもうだてしいか)』『新撰朗詠(しんせんろうえい)集』の撰者。なお、その門から藤原俊成(しゅんぜい)が出た。永治(えいじ)2年1月16日没。

井上宗雄

『橋本不美男著『院政期の歌壇史研究』(1966・武蔵野書院)』


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改訂新版 世界大百科事典 「藤原基俊」の意味・わかりやすい解説

藤原基俊 (ふじわらのもととし)
生没年:1060-1142(康平3-康治1)

院政期の歌人。右大臣俊家の子。従五位上左衛門佐。和漢の学に通じ,堀河朝歌壇頭角をあらわし,鳥羽,崇徳朝では諸家歌合判者を勤仕する指導者として源俊頼・基俊時代を現出させたが,俊頼の新風志向とは対立を続け,古典尊重の規範的態度を崩さず,典拠を重視した高い格調と洗練された風姿を求め続けた。《新撰朗詠集》を編纂漢詩も遺すほか,《万葉集》次点訓読者の一人ともなった。家集に自撰本,遺草編纂本の2種の《基俊集》がある。筆蹟に自筆奥書をもつ多賀切《和漢朗詠集》と,撰者自筆本として著名な山名切《新撰朗詠集》があり,簡古淡雅のうちに気概のこもる筆致を見る。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「藤原基俊」の意味・わかりやすい解説

藤原基俊
ふじわらのもととし

[生]?
[没]康治1(1142).1.16.
平安時代後期の歌人,歌学者。右大臣俊家の子。道長の曾孫。従五位下左衛門佐。『堀河百首』の作者の一人となり,『万葉集』にも訓点 (次点) をつけた一人。『新撰朗詠集』の著者。『悦目抄』 (現存の同名の歌学書は後世の仮託) や『新三十六人』などの私撰集があったという。『源国信 (くにざね) 家歌合』 (1100) 以下多数の歌合に出詠,判者となり,源俊頼と並び,歌壇の中心的存在であった。『金葉集』以下の勅撰集に 105首余入集。家集『藤原基俊集』。

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朝日日本歴史人物事典 「藤原基俊」の解説

藤原基俊

没年:康治1.1.16(1142.2.13)
生年:康平3(1060)
平安時代後期の歌人。父は右大臣俊家。母は高階順業の娘。従五位上左衛門佐。長治2(1105)年『堀河百首』,元永1(1118)年『内大臣家歌合』などに出詠。歌合の判者をたびたび務め,私選集『新撰朗詠集』を編纂するなど,源俊頼と共に歌壇の指導者的存在であった。晩年の弟子に,藤原俊成がいる。保延4(1138)年に出家。法名は覚舜。代表作は百人一首に採られた「契りおきしさせもが露を命にてあはれ今年の秋も往ぬめり」。家集に『基俊集』がある。『本朝無題詩』に17首の漢詩を残す漢詩人でもあった。<参考文献>橋本不美男『院政期の歌壇史研究』

(加藤睦)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「藤原基俊」の解説

藤原基俊 ふじわらの-もととし

1060-1142 平安時代後期の歌人。
康平3年生まれ。藤原俊家の3男。名門の出だが左衛門佐(すけ),従五位上でおわる。中古六歌仙のひとりで,源俊頼(としより)とならぶ当時の歌壇の指導者。「金葉和歌集」以下の勅撰集に約100首がはいっている。「万葉集」に次点(訓点)をくわえ,「新撰朗詠集」を編集するなど和漢の学に通じた。永治(えいじ)2年1月16日死去。83歳。家集に「基俊集」。
【格言など】契りおきしさせもが露を命にてあはれ今年の秋もいぬめり(「小倉百人一首」)

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世界大百科事典(旧版)内の藤原基俊の言及

【新撰朗詠集】より

…2巻。藤原基俊撰。成立年不詳。…

【朗詠】より

催馬楽(さいばら)に比べると拍節も定かではなく,むしろ,ゆるやかに流れるフシのみやびやかさを鑑賞すべく考案されたもののようである。宇多天皇の孫にあたる源雅信(920‐993)がそのうたいぶりのスタイルを定め,一派を確立したと伝えられており,その後,雅信を流祖とする源家(げんけ)と,《和漢朗詠集》《新撰朗詠集》の撰者藤原公任,藤原基俊などの流派である藤家(とうけ)の2流により,それぞれのうたいぶりや譜本を伝えた。これらの流儀はさらにうたいものを伝える堂上公家の系統である綾小路(あやのこうじ)家持明院家などに受け継がれ,これらの家に伝わる譜本に基づいて1876年に《嘉辰》《春過》《徳是(とくはこれ)》《東岸》《池冷(いけすずし)》《暁梁王》《紅葉(こうよう)》の7曲が,さらに88年に《二星(じせい)》《新豊》《松根》《九夏》《一声》《泰山》《花十苑》の7曲が宮内庁楽部の選定曲とされ,別に《十方(じつぽう)》を加えて,現在の宮内庁楽部のレパートリーとされている。…

※「藤原基俊」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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