日本大百科全書(ニッポニカ) 「藤島の戦い」の意味・わかりやすい解説
藤島の戦い
ふじしまのたたかい
1338年(延元3・暦応1)越前(えちぜん)国藤島(福井県福井市)付近で、新田義貞(にったよしさだ)の南軍と斯波高経(しばたかつね)の北軍の間で行われた合戦。北国の南軍は、37年(建武4・延元2)3月の金ヶ崎(かながさき)城(福井県敦賀(つるが)市)の陥落によっていったんは大打撃を受けたが、のち、新田義貞らの活躍によってしだいに勢力を挽回(ばんかい)した。翌年2月、脇屋義助(わきやよしすけ)は、3000の兵をもって、斯波高経の拠(よ)る越前(えちぜん)の国府(こくふ)城を奪い、ついで新田軍は、高経の本城である黒丸城を攻撃するに至った。この新田軍には平泉(へいせん)寺の衆徒が参加していたが、彼らは、長年にわたって延暦(えんりゃく)寺と係争中であった藤島荘(しょう)の交付を条件に、高経方への協力を申し出た。高経はこの要求を受け入れ、衆徒らが足利(あしかが)軍へと内応するや、彼我の勢力は一挙に逆転した。同年閏(うるう)7月2日、新田義貞は黒丸城を攻撃しようとして、燈明(とうみょう)寺に3万余騎の兵を集めた。平泉寺衆徒は、黒丸城支城の一つである藤島城にこもって激しく抵抗した。この日の夕刻、義貞は、藤島城を包囲している味方の士気を鼓舞しようと、わずかな手兵を率いて藤島城へと向かったが、燈明寺畷(なわて)において、黒丸城から藤島城救援のために行進中の細川孝基(たかもと)の率いる歩射(ぶしゃ)部隊と遭遇し、激戦のすえ、矢疵(やきず)を負って自刃した。この結果、新田軍は壊滅し、同時に北国の南軍も一挙にその勢力を失うに至ったのである。
[佐藤和彦]
『佐藤進一著『日本の歴史9 南北朝の動乱』(1965・中央公論社)』▽『奥富敬之著『上州 新田一族』(1984・新人物往来社)』▽『佐藤和彦著『自由狼藉・下剋上の世界』(1985・小学館)』