見附(読み)ミツケ

デジタル大辞泉 「見附」の意味・読み・例文・類語

みつけ【見附】[新潟県の市]

新潟県中部の市。江戸時代にはつむぎの見附結城の産地として知られ、現在は化繊織物やニット生地を生産。人口4.2万(2010)。

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改訂新版 世界大百科事典 「見附」の意味・わかりやすい解説

見附 (みつけ)

見付とも書く。城郭要所に置かれた升形(ますがた)のある城門の外側で,城門を警固する番兵の見張る場所のこと。江戸城では俗に〈三十六見附〉と呼びならわされている。しかし四谷見附を正しくは四谷御門というように,〈見附〉を付して呼ぶのは俗称である。幕府作事方の資料によれば外曲輪(そとぐるわ)は26門,内曲輪は10門以上あり(曲輪),年代による変化もあるので,36の具体的内容は必ずしも明らかでない(図)。これらは外曲輪,内曲輪とも軍事上,重要な門であり,外から高麗門をくぐって升形に入った正面に小番所,升形から渡櫓(わたりやぐら)下の大門を抜けた正面に大番所が置かれ,警固の武士が昼夜詰めていた。これらの御門はほとんどが堀に架けられた橋の内側にあるので,登・下城の武士のみでなく,江戸に出入りする町人たちやさまざまな物資の出入りする交通の要所でもあり,軍事的色彩のうすれた江戸時代中期以降は,御門の外側である見附周辺は,文字どおり門前町として繁華な町並みができた。外堀に沿った赤坂,四谷,市ヶ谷牛込浅草などの見附のように,周辺部町人地の中心として発展した場合が多い。
江戸城 →
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見附[市] (みつけ)

新潟県中部の市。1954年市制。人口4万1862(2010)。信濃川支流の刈谷田川中流に位置し,西部は越後平野の平たん部,東部は魚沼丘陵山地からなる。刈谷田川の谷口に位置する中心の見附は,近世に河岸町として栄え,六斎市も立ち,村松藩の代官所が置かれた。現在は県下有数の機業都市である。機業は宝暦年間(1751-64)に農家の副業として始まり,文政年間(1818-30)には村松藩の奨励により結城紬(ゆうきつむぎ)の織法が導入され,見附結城と呼ばれる銘柄物を織った。明治以後,隣接する栃尾市とともに節糸(ふしいと)織物,絹綿交織物,輸出用羽二重の織物町となり,県の染織試験場(現,新潟県工業技術総合研究所素材応用技術支援センター)も置かれた。第2次大戦後,合繊織物,メリヤスに転換し,近年でも繊維関係は市の製造品出荷額の過半を占めている。西部の今町は近世以降見附と並ぶ河岸町で,第2次大戦前は中越地方の米穀取引の中心の一つであった。毎年6月初旬には今町と刈谷田川をはさんで対岸の長岡市の旧中之島町との間に盛大なたこ合戦が行われる。JR信越本線が通る。
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見附 (みつけ)

遠江国(静岡県)の地名。磐田郡に属し,見付とも書く。古代以来遠江国の中心地として国府が置かれ,また国分寺が創建されるなど早くから発展し,中世の紀行文などにも〈遠江国府〉〈見附の府〉〈見つけのこう〉などとしてしばしば現れ,宿駅でもあった。南北朝期に遠江守護今川範国が居館を築いて以降,室町・戦国期には見附城(見附端城(みつけはじよう)ともいう)として,今川了俊(貞世)に始まる遠江今川氏(堀越氏を称する)の拠点の一つともなった。徳川家康が居城を岡崎から浜松に移す前,一時見附城の普請を行ったともいわれるが,その後廃城となった。近世宿駅としては,1601年(慶長6)に幕府により設定された。品川宿より28番目の宿駅にあたり,距離的には江戸へ60里17町45間と,東海道五十三次のほぼ中間に位置した。《東海道宿村大概帳》によれば,宿内町並東西11町40間,1843年(天保14)の改めで宿内人口3935人,惣家数1029軒(うち本陣2,脇本陣1,旅籠屋56軒)であった。1889年見付町となり,1940年中泉町等と合併して磐田町,48年磐田市として市制。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

事典・日本の観光資源 「見附」の解説

見附

(静岡県磐田市)
東海道五十三次」指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

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