特定の物質の存在によって合成速度が増加する酵素群。生命の営む多彩な活動は多種多様な酵素によって支えられている。酵素の中でも生命の維持につねに必要なものは構成性constitutive酵素と呼ばれ,つねに一定量合成されている。これに対して環境条件の変化に応じて合成量が著しく変化する一群の酵素があり,これを誘導酵素という。例えば大腸菌の場合,ラクトース(乳糖)を炭素源として利用するために,ラクトースを細胞内にひき入れる透過酵素(ペルミアーゼpermease)やラクトースを分解してガラクトースとグルコース(ブドウ糖)にする酵素(β-ガラクトシダーゼ)が必要である。環境中にラクトースが存在しないときには,これらの酵素はほとんど合成されず,ラクトースがあると合成量が著しく増加する。前者の場合,リプレッサーと呼ばれるタンパク質がβ-ガラクトシダーゼなどの遺伝子発現を抑制しているが,ラクトースが環境中に存在する場合,ラクトースとリプレッサーが結合し遺伝子転写の抑制が解除される。これを酵素の誘導といい,ラクトースのような物質を誘導物質inducerと呼ぶ。ところで,ラクトースとグルコースが培養液中に共存している場合,酵素の誘導は起こらずもっぱらグルコースが消費され,ラクトースはそのまま残る。グルコースが消費しつくされると,ラクトース分解系酵素の合成が始まる。この現象はグルコース効果と呼ばれ,環状AMPが関与する別の制御機構が存在するために起こる。細胞がエネルギーを得るためにはグルコースは最も利用しやすい糖であり,それを優先して利用するための制御機構と考えられる。なおグルコース分解に関与する解糖系酵素群は構成性である。
トリプトファンやヒスチジンなどの重要なアミノ酸の合成に関する酵素群は,これらのアミノ酸が周囲に豊富に存在するときには合成されず,少なくなると合成されるようになる。したがって,これらの酵素も環境の変化に応じて量的に変化する酵素群の例であるが,誘導酵素とは呼ばれないで抑制性酵素repressible enzymeといわれている。ヒトなどの高等動物においては,肝臓において薬物代謝に関与する酵素群の合成が,薬物投与により誘導されることも知られている。例えば抗痙攣(けいれん)剤,とくにバルビタール系薬物の投与により,肝臓細胞における薬物代謝酵素量の増加が起こる。また発癌物質の多くのものは,それ自身は不活性であるが,肝臓の薬物代謝酵素の作用で発癌性の強い物質になることが知られているが,これらの酵素のいくつかも薬物投与により量的変化を示すことも知られている。しかし高等生物の場合,酵素の誘導の機構は大腸菌の場合のようには詳しくわかっていない。
執筆者:丹羽 修身
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
細菌や酵母などにみられる現象で、これらの細胞に一定の物質(誘導物質)を与えたとき、特定の酵素タンパクの合成が急激に高まる一群の酵素をいう。かつては周囲の環境に適応するという意味で適応酵素ともよばれた。大腸菌のβ(ベータ)-ガラクトシダーゼはその代表例である。大腸菌の場合、グルコースを栄養源(炭素源)として利用すると細胞当りのβ-ガラクトシダーゼは10分子程度にすぎないが、ラクトースを唯一の炭素源として利用すると細胞当り数千分子の酵素量となる。
誘導物質は一般に酵素反応系の出発物質またはその類似物で、その添加によって以下の全過程あるいは関連酵素群が順次誘導されることが多い。誘導による酵素レベル調節機構は、フランスの分子遺伝学者J・F・ジャコブと分子生物学者J・L・モノーによって詳しく研究された。1961年に彼らが提唱したオペロンモデルによると、一群の構造遺伝子および調節部位(オペレーターとプロモーター)からなるオペロンが遺伝子発現の作動単位となる。誘導物質は調節部位から生ずるリプレッサー(抑制物質)と結合することにより、リプレッサータンパク質とオペレーター部位との結合を妨げ、その結果RNAポリメラーゼがオペレーターを通り抜け、ラクトースオペロンを転写できるようになる。このように、誘導は転写(RNA合成)レベルでの遺伝子発現調節である。
近年、高等動物細胞でも類似の現象がみつかっている。メタロチオネインは肝臓の解毒タンパクであるが、アメリカの生化学者パルミターRichard Deforest Palmiter(1942― )は、肝細胞が鉛や亜鉛などの有害重金属にさらされると、メタロチオネイン遺伝子の活性化がおこることを発見した。しかし、その誘導機構についてはまだ完全には説明されていない。動物細胞では、またメトトレキセートのような薬剤によるジヒドロホレートレダクターゼの増加も知られているが、これは遺伝子の増幅を伴うものであり、転写レベルで調節される誘導とは区別される。
[入江伸吉]
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