諫早(市)(読み)いさはや

日本大百科全書(ニッポニカ) 「諫早(市)」の意味・わかりやすい解説

諫早(市)
いさはや

長崎県南東部にある市。1940年(昭和15)市制施行。この市制施行は、干拓事業や灌漑(かんがい)用水水源である本明(ほんみょう)川を通じて、互いに利害をともにする関係7町村(諫早町、小栗(おぐり)、小野(おの)、有喜(うき)、真津山(まつやま)、本野(もとの)、長田(ながた)の各村)の合意によって成立した。2005年(平成17)西彼杵(にしそのぎ)郡多良見町(たらみちょう)、北高来(きたたかき)郡の森山町(もりやまちょう)、飯盛町(いいもりちょう)、高来町(たかきちょう)、小長井町(こながいちょう)を合併。これにより北高来郡は消滅した。多良岳(たらだけ)火山、島原半島、長崎半島の3地帯の中間に位置し、諫早湾、大村湾、橘(たちばな)湾に臨む。JR西九州新幹線、長崎本線、大村線と島原鉄道が通じ、長崎自動車道、国道34号、57号、207号の交点にあたり、長崎市や雲仙天草(うんぜんあまくさ)国立公園の玄関口として交通上の要地。南岸部を国道251号が通る。市街地は、本明川畔の亀城(かめのしろ)(高城(たかしろ)ともいう。現、諫早公園)を中心に建設された城下町で、栄町(さかえまち)、本町(ほんまち)が中心をなす。市域内の干拓地は3000ヘクタールに及ぶ田園都市で、長崎県の穀倉地帯をなし、県農林技術開発センター、県立農業高校や多くの農機具店、種苗店などがあり、農産物集散地をなす。1957年(昭和32)本明川の大水害で市街地は泥土と化したが、現在はまったく復旧している。この水害の際、流失せずに流木をせき止めたため、かえって市街地の災害を大きくしたといわれる堅固な眼鏡橋(めがねばし)(国指定重要文化財)は、現在は取り外されて諫早公園内に移されている。

 長崎市の過密化に伴い、市街西方に工場団地や住宅団地の形成が進み、盛期には貝津工業団地の事業所数は106に上り、また西諫早ニュータウンは人口2万人を数えた。北部の多良岳山腹には標高500メートル前後の等高線に沿って農道が建設され、ミカン、野菜、酪農を軸とした営農団地が形成された。飯盛地区のショウガや小長井地区の帆崎石は特産。かつて諫早湾は魚貝類の生産性の高い海域であったが、干拓事業により漁場環境が悪化し、養殖ノリの変色や名物のムツゴロウ、貝類の死滅など甚大な漁業被害が生じた。本明川上流の富川(とみがわ)渓谷には、元禄(げんろく)年間(1688~1704)の水害による犠牲者を弔う五百羅漢(らかん)を線刻した磨崖仏(まがいぶつ)がある。多良岳一帯は多良岳県立自然公園に指定される。面積341.79平方キロメートル、人口13万3852(2020)。

[石井泰義]

『『諫早市史』(1955~1962・諫早市)』


出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android