南北朝時代の武将。鎌倉公方(くぼう)初代。尊氏(たかうじ)の子。1349年(正平4・貞和5)足利義詮(よしあきら)にかわって鎌倉府の主となる。翌1350年尊氏と直義(ただよし)との間に観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)が起こると、直義方の上杉憲顕(のりあき)に担がれて関東各地を転戦する。尊氏が直義を鎌倉で毒殺したあとは父尊氏に属し、直義方や南朝勢力と対峙(たいじ)し、新田義興(にったよしおき)を滅ぼすなどして東国武士の多くを結集した。さらに東国武士の信頼を失った執事畠山国清(はたけやまくにきよ)を追放し、尊氏と対立して越後(えちご)(新潟県)に逃れていた上杉憲顕を関東管領(かんれい)として迎え、憲顕の就任に反対する宇都宮氏綱(うつのみやうじつな)らを討ち、東国における鎌倉府支配の基礎を築いた。1367年4月26日、28歳で没した。
[伊藤喜良]
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南北朝時代の武将。足利尊氏の子。1349年(正平4・貞和5)兄義詮に代わって鎌倉の主となり,初代の鎌倉公方(くぼう)となる。養父直義の政治的影響を強く受ける。52年(正平7・文和1)鎌倉で元服。翌年以降武蔵入間川に在陣し,その間に関東における南朝勢力の中心たる新田義興を多摩川矢口ノ渡しで謀殺した。また61年(正平16・康安1)専横を極めた関東管領畠山国清を伊豆に追放し,その後信望のあつい上杉憲顕を再び関東管領に迎え入れて鎌倉府体制の基礎を固めた。基氏は,禅僧義堂周信に帰依し修養につとめたことも著名である。
執筆者:佐藤 博信
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(山田邦明)
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1340~67.4.26
初代鎌倉公方(くぼう)。尊氏の四男,母は赤橋登子。法名瑞泉寺玉岩道昕。従三位左兵衛督。1349年(貞和5・正平4)兄義詮(よしあきら)の上洛により鎌倉へ下向,高師冬(こうのもろふゆ)と上杉憲顕を執事とする。のち憲顕は南朝方に呼応,基氏は尊氏とともに,これを武蔵野合戦で破った。53年(文和2・正平8)上洛した尊氏の命で,南朝方新田義興を牽制するため,執事畠山国清とともに武蔵国入間川に布陣。6年間の在陣で義興の謀殺をはたし関東平定を進める。61年(康安元・正平16)関東諸将の支持を失った国清を追討,63年(貞治2・正平18)憲顕を関東管領に復帰させ,鎌倉府による関東支配体制の確立に尽力。
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…室町幕府による東国支配のために鎌倉に置かれた政庁である鎌倉府の長官。関東公方(くぼう)ともいう。足利氏の東国支配は,1333年(元弘3)12月建武政権下で足利直義が〈関東十ヵ国〉(相模,武蔵,上野,下野,上総,下総,安房,常陸,伊豆,甲斐)の支配をゆだねられ後醍醐天皇の皇子成良親王を奉じて鎌倉に入ったことにはじまる(鎌倉将軍府)。足利尊氏は,36年(延元1∥建武3)11月京都に幕府を開いたが,その嫡子義詮を鎌倉にとどめ,これを〈鎌倉御所(鎌倉公方)〉とし,そのもとに関東管領を配置して東国の政治一般にあたらせた。…
…宇都宮氏綱は芳賀禅可(はがぜんか)(高名)とともに尊氏方に属して翌51年駿州薩埵山の戦で活躍し,賞として上野,越後の守護職に補任され,芳賀高名の子高家・高貞が越後守護代となった。ところが63年(正平18∥貞治2)鎌倉公方足利基氏の力添えで上杉憲顕が関東管領・越後守護に復帰し,氏綱は武力で阻止しようとして敗れ,68年(正平23∥応安1)武蔵の平一揆(川越,江戸,豊島氏等)と結んで再度兵を挙げた。基氏は氏綱討伐の軍を派遣して宇都宮城を攻落した。…
※「足利基氏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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