足利義氏(読み)あしかがよしうじ

精選版 日本国語大辞典 「足利義氏」の意味・読み・例文・類語

あしかが‐よしうじ【足利義氏】

  1. [ 一 ] 鎌倉時代の武将。義兼の子。初名三郎。「続拾遺集」に和歌が採られている。号法楽寺。文治五~建長六年(一一八九‐一二五四
  2. [ 二 ] 戦国時代の武将。晴氏の子。古河公方。天正一〇年(一五八二)没。

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改訂新版 世界大百科事典 「足利義氏」の意味・わかりやすい解説

足利義氏 (あしかがよしうじ)
生没年:1541-82(天文10-天正10)

戦国後期の武将。足利晴氏の子。母は北条氏綱女。最後の古河公方(こがくぼう)となる。幼名梅千代王丸。1552年(天文21)晴氏から家督を譲り受けた。55年(弘治1)元服して将軍義輝の偏諱(へんき)を得て義氏と称す。従四位,右兵衛佐に叙せられる。元服後,後北条氏の援助を得て鎌倉や古河に御所を構えたが,69年(永禄12)の越後上杉氏と北条氏との和睦以後,本拠地古河に定住する。北条氏と密接な関係を持ったが,古河公方家としてその間特有な役割を果たし,とくに北関東の諸将に大きな影響を与えた。82年嗣子なく没し,古河公方家は断絶する。遺女氏姫が後に小弓(おゆみ)公方家の国朝,頼氏と結婚し,その血筋を喜連川氏(きつれがわうじ)に伝えた。
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足利義氏 (あしかがよしうじ)
生没年:1189-1254(文治5-建長6)

鎌倉前期の武将。義兼の三男正嫡。母は北条時政女。室は北条泰時女。1213年(建保1)和田氏の乱で武名をあげ,承久の乱では東海道軍の将として活躍した。三河の守護となり,おそらく上総の守護も兼ね,所領を拡大,官位も正四位下,左馬頭に昇進した。短期間だが将軍家政所別当を務め,1241年(仁治2)出家した。法名正義。《続拾遺集》に歌が載っている。
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朝日日本歴史人物事典 「足利義氏」の解説

足利義氏

没年:天正11.1.21(1583.2.13)
生年:天文10(1541)
戦国時代の武将。晴氏と北条氏綱の娘の子。5代古河公方。幼名は梅千代王丸。右兵衛佐。弘治1(1555)年元服,将軍足利義輝の諱の1字をもらい義氏と名乗る。天文21(1552)年12月,伯父北条氏康の力添えで父晴氏の家督を継承。鎌倉,古河,葛西などに御所を構え,翌年より家臣や近辺の寺社に多くの所領安堵状を発し,東国大名間の紛争調停を行うなど公方権力の蘇生現象を生み出したが,それは伯父氏康の実力に裏付けられた古河公方最後の輝きであった。その間,父晴氏や異父兄藤氏らの反発を受けるが,氏康の弟氏照らに守られながら,反北条氏勢力に対する防波堤としての役割を果たし,永禄12(1569)年の北条・越後上杉両氏の同盟成立を機に,その役割を終えて本拠地古河に定住した。男子なく没したため,娘氏姫が小弓公方家の国朝(頼氏)と結婚,その血筋を伝えた。

(市村高男)


足利義氏

没年:建長6.11.21(1255.1.1)
生年:文治5(1189)
鎌倉前期の武士。義兼と北条時政の娘の子。建保1(1213)年の和田合戦では和田方の勇将朝比奈義秀と戦って名をあげる。検非違使から陸奥守,左馬頭になるなど,高位の官職を歴任して源氏将軍が滅んだのちの源氏のトップの地位を保持した。それだけに北条氏には協力的で,北条泰時の娘婿となり,承久の乱(1221),宝治合戦(1247)などに北条方として行動し,暦仁1(1238)年には北条政子のために高野山金剛三昧院に大仏殿を建立した。その間,三河国(愛知県)の守護,また承久の乱の恩賞で美作国(岡山県)に所領を持ち,さらに宝治合戦では千葉秀胤の没収所領を獲得するなど,のちの足利氏発展の基礎を築いた。

(五味文彦)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「足利義氏」の意味・わかりやすい解説

足利義氏
あしかがよしうじ
(1189―1254)

鎌倉中期の武将。義兼の子で母は北条時政(ときまさ)の娘。武蔵守(むさしのかみ)、陸奥(むつ)守、左馬頭(さまのかみ)などを歴任し正四位下に至る。1213年(建保1)和田義盛(よしもり)の乱で、豪傑をもって知られる朝比奈(あさひな)三郎義秀との一騎打ちで五分に渡り合った話は有名。1221年(承久3)の承久(じょうきゅう)の乱や1247年(宝治1)の三浦氏の乱では北条氏のもとで戦功をあげた。1241年(仁治2)出家して正義と称した。高野山(こうやさん)の金剛三昧(こんごうさんまい)院に大仏殿を造立し伯母北条政子(まさこ)の菩提(ぼだい)を弔った。なお、最後の古河公方(こがくぼう)となった足利義氏(1541―1582)は別人。

[朧谷 寿]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「足利義氏」の解説

足利義氏(1) あしかが-よしうじ

1189-1255* 鎌倉時代の武将。
文治(ぶんじ)5年生まれ。足利義兼の3男。建保(けんぽ)元年和田氏の乱では勇猛で知られた朝比奈義秀(あさひな-よしひで)と五分にたたかって名をあげた。承久(じょうきゅう)の乱,三浦氏の乱などでも幕府方として活躍した。和歌が「続拾遺和歌集」に1首えらばれている。建長6年11月21日死去。66歳。通称は三郎。
【格言など】名残なくすぎゆく春を関宿(せきやど)のおし留めもせず夏たけにけり(「鎌倉九代記」)

足利義氏(2) あしかが-よしうじ

1541-1583 戦国-織豊時代の武将。
天文(てんぶん)10年生まれ。足利晴氏の子。母は北条氏綱の娘芳春院。足利氏姫の父。伯父北条氏康の庇護(ひご)のもと,天文21年家督をつぎ,5代古河公方(こがくぼう)となる。天正(てんしょう)11年1月21日死去。43歳。男子がなく没したため,最後の古河公方。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「足利義氏」の解説

足利義氏
あしかがよしうじ

1541?~83.1.21

最後の古河公方(こがくぼう)。父は晴氏,母は北条氏綱の女芳春院。幼名梅千代王丸。法名香雲院長山周善。従四位下右兵衛佐。1552年(天文21)後北条(ごほうじょう)氏の意向で嫡子(異母兄)藤氏(ふじうじ)を差しおいて家督をつぐ。晴氏が後北条氏に幽閉されると,母とともに鎌倉葛西ケ谷(かさいがやつ)に移った。その後,後北条氏の庇護をうけて下総国関宿(せきやど)などを転々としたが,69年(永禄12)頃古河に復帰,死没まで在城した。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「足利義氏」の意味・わかりやすい解説

足利義氏
あしかがよしうじ

[生]文治5(1189)
[没]建長6(1254).11.21.
鎌倉時代前期の武士。義兼の子。北条泰時の女婿。和田義盛の乱 (→和田合戦 ) ,承久の乱宝治合戦に参加,鎌倉幕府に貢献。

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