坂本(読み)サカモト

デジタル大辞泉 「坂本」の意味・読み・例文・類語

さかもと【坂本】[姓氏]

姓氏の一。
[補説]「坂本」姓の人物
坂本嘉治馬さかもとかじま
坂本四方太さかもとしほうだ
坂本太郎さかもとたろう
坂本天山さかもとてんざん
坂本繁二郎さかもとはんじろう
坂本義和さかもとよしかず
坂本竜一さかもとりゅういち
坂本竜馬さかもとりょうま

さかもと【坂本】[地名]

滋賀県大津市北部の地名。比叡山ひえいざんの登り口で、延暦寺の門前町、琵琶湖の港町として発展。

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精選版 日本国語大辞典 「坂本」の意味・読み・例文・類語

さかもと【坂本・阪本・坂元】

  1. 姓氏の一つ。

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日本歴史地名大系 「坂本」の解説

坂本
さかもと

比叡山の東部、琵琶湖岸にわたる一帯。坂本は延暦寺の坂下(坂本)の意であり、京都側を西坂本というのに対し東坂本とも称する。また少なくとも中世の坂本は南の穴太あのう、北の苗鹿のうかなどを含む広い範域をさしたとみられ、その中に延暦寺・日吉社の門前である地域、その外港というべき戸津とづなどの湊が展開した。江戸時代の郷村帳では浜方の下坂本村と門前の上坂本村の二村として高付されるが、下坂本は別に浜坂本はまさかもととよばれ、上坂本を合せて上浜かみはまとも称した。また時代を限定できないが、穴太衆積みの石垣で知られた石工衆が集住した穴太地区は南坂本とよばれたという。戸津または三津みつ浜の湊は東国・北国からの延暦寺および京都への物資の荷揚場として栄え、門前には社家・山徒らの坊舎などが立並び、都市的景観を呈していた。ここに交通運輸業者の馬借・車借、金融業者の土倉、また問丸が集住し、湖上関が置かれた。京都を西に置いて延暦寺の山下にあり、北国海道で北陸につながり、湖上によって北陸・東国に結ばれていることが坂本の繁栄を約束し、その性格を決定した。

〔比叡山山下〕

天元二年(九七九)八月二日、坂本・三津浜・苗鹿村住人が延暦寺代々の御願堂塔の造作修理の臨時雑役を免除されているのは(「官宣旨」山門堂舎記)、東坂本苗鹿領とも記された苗鹿など(承元二年一一月「承信譲状」曼殊院文書)、広義の坂本が比叡山一山のうちと把握されていたその起源を示すものであろう。文明一〇年(一四七八)一一月一六日、日吉社の小五月会の執行を延暦寺に命じた室町幕府奉行人奉書(八坂神社文書)に、幕府の命を速やかに「山上・坂本以下」に相触れるべきことが記され、また永正五年(一五〇八)八月七日に「撰銭事」で山門使節宛に発給された室町幕府奉行人奉書(蜷川家古記録之内抜書)にも「山上・山下・坂本以下」に下知すべしという文言がみえ、坂本が比叡山の山上・山下とともに延暦寺の一円的な支配下にあったことがうかがえる。湖辺にあった日吉社の社家が上坂本に移住したのは平安末期から鎌倉時代の初めといわれ、「日吉社神道秘密記」は「富崎とがさき町・川崎町・和田崎・江ツラ已下、悉ク社家中ノ住居、此ノ処ナリ、成仲宿禰樹下へ上り初メラレ、行言ゆきとき生源寺へ上リ初メラレ、上坂本中ニ処々住ム処ナリ」と伝える。中世、琵琶湖岸の集落を総称して「浜」とよんでおり、建暦元年(一二一一)一一月二三日坂本の大火を記録した「明月記」同月二三日条は「ひんがしさかもとはまより、わうじの宮のほうでんまで、やけたりときこゆ」と記す。


坂本
さかもと

現姫路市の書写山円教えんぎよう寺を中心とした中世の地名。坂元とも記される(「鵤庄引付」斑鳩寺文書、年未詳「嘉吉軍物語写」飯尾文書など)。播磨国飾磨郡円教寺縁起等事(円教寺蔵)に、長保四年(一〇〇二)三月七日の花山法皇書写山臨幸に際して「即碑文於賜東西坂本、起請条々也」とあるように、東坂本・西坂本の地名もみられる。「太平記」巻一六(西国蜂起官軍進発事)によると、延元元年(一三三六)三月六日に新田義貞から足利尊氏追討の命を受けた江田行義・大館氏明の軍勢が「書写坂本」に到着している。観応二年(一三五一)には足利尊氏が書写坂本に布陣しており(同年七月日「松浦秀軍忠状」肥前松浦文書)、当地は軍事上からも重視されていた。明徳三年(一三九一)六月二六日、守護赤松氏が国衙眼代職(国衙目代職)を小河氏に安堵した(「赤松義則書下」小河文書)

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改訂新版 世界大百科事典 「坂本」の意味・わかりやすい解説

坂本 (さかもと)

比叡山東麓一帯の呼称で,西麓の京都側を西坂本と呼ぶのに対して東坂本と称することもある。およそ現在の滋賀県大津市坂本本町,下阪本,唐崎,比叡辻にあたり,古代は近江国滋賀郡大友郷に含まれる。延暦寺創建以前より大山咋(おおやまくい)命と大己貴(おおなむち)命を合祀する日吉社(日吉大社)の鎮座地であったが,良源が18代天台座主に就任する平安中期以降,延暦寺=山門の勢力拡大にともないその膝下領域としての重要性を増していった。中世には日吉社から東にのびる日吉馬場を主要道路としてその周囲に寺家,社家,日吉社彼岸所,生源寺,里房(さとぼう)などの山門支配機関が立ち並び,全国的規模で形成された山門領荘園を管理する中心地として,また山上への物資補給基地として多数の僧俗が居住することになった。なかでも諸雑事を担当した山門の従属民である公人(くにん)は重要な位置を占めた。また坂本で山門衆徒が私的に所有する里房は,宗教的色合いの濃い山上房舎とは異なり,俗人をも交えた衆徒の同族的な結合の中で経済得分に関する雑務をとり扱うという世俗性の強いものであった。山門領荘園の多くは近江および北陸地方に分布していたが,そこからの年貢や材木などは湖上を経て三津浜と呼ばれる下坂本湖岸に陸揚げされた。また山門は鎌倉初期に坂本より山中を経て京白川に至る今路(いまみち)を造成することによって,京都への輸送ルートをも掌握した(《葉黄記》)。

 山門の荘園支配に関する機関は六箇条(ろつかじよう)と呼ばれる上坂本に集中していた。これに対して南北朝期以降の坂本の都市発展は特に湖岸沿いの三津浜(下坂本)に顕著であった。このころより全国的な商品流通の発展にともなって,坂本は東国・北国から琵琶湖を経て京都へ至る物資輸送ルート上の中継港湾都市としての機能を高めていった。この結果,湖岸部には運送業者である多数の馬借(ばしやく)や商人の居住がすすんでいった。馬借は下坂本の富崎,比叡辻,戸津,坂井の地に居住し,山門に従属しつつ京都~坂本間の物資輸送に従事していた。馬借はしばしば米の販売や関所の通行など流通上の問題について数千人という規模で蜂起し,抗議行動を行っている。彼らは土一揆が京都市中に乱入する際に先兵の役割を果たしたことでよく知られている。おなじく湖岸部には海津屋,越中屋,美濃屋などの屋号をもち,京都と北陸道や東山道との間で交易・輸送活動に従事する有力な問屋(といや)商人が存在した。たとえば天王寺苧座(からむしざ)に属していた海津屋香取は,越後から京都を経て天王寺に至る苧商売の中で輸送・為替業務を担当していた。また1394年(応永1)には坂本中に39軒の土倉(どそう)が金融業を営んでいたことが判明する。これらの多くは衆徒の里房がもとになって成立したものとみられる。このような坂本の都市的発展に対して山門は,湖上関を設置することにより商業利益を吸収しようとした。室町期の下坂本には本関,導撫関,講堂関,横川(よかわ)関,中堂関,合関,西塔関の7関が設けられ,通過または着岸する船舶よりもれなく関銭を徴収していた。関銭免除を認める過書の発給については,室町幕府が山門の有力衆徒の中から任命した山門使節が実質的な権限を握っていた。

 このように山門の荘園支配の中心地としての出発をとげた坂本は,商業流通の発展につれ,本来の役割に加えて京都在住の荘園領主の経済を支える役割をあわせもつようになり,上坂本と下坂本の機能分化の様相を呈していった。すなわち中世末1570年(元亀1)の記録に,〈上坂本家々数多繁昌ト見エタリ,ソレヨリ南ニ少津ノ市場ヲ見物,千五百家モ在之歟〉(《多聞院日記》)と都市景観が描かれている。中世の人口は1501年(文亀1)の大火で在家数千軒が炎上した例からみて,2万を越える規模をもっていたとおもわれる。そして坂本の中世は71年9月の織田信長による叡山焼打ちによって幕を閉じる。このときの状況を《日本耶蘇会年報》は〈坂本の町民等も亦坊主等の勧告に依りて,妻子等と共に山に登りたり……坊主等の死したる者約千五百人,俗人は男女小児を合わせて同数なりしという〉と伝えている。この後明智光秀によって坂本城が築かれるにおよび,坂本は近世の統一権力の下に組み込まれていった。85年(天正13)浅野長政が坂本城の遺構を大津に移建するとともに経済的中心も大津に奪われ,1721年(享保6)の人口は上坂本,下坂本ともに2000人余に過ぎないものになった。明治以降は坂本村と下坂本村に行政区画され,1951年に大津市に編入。
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坂本(熊本) (さかもと)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「坂本」の意味・わかりやすい解説

坂本(滋賀県)
さかもと

滋賀県南部、大津市中北郊の一地区。旧滋賀郡坂本村。古くから西近江(おうみ)路の要地として重要視され、南部の穴太(あのう)は『延喜式(えんぎしき)』の駅家(うまや)でもあった。坂本村はまた、世界遺産(文化遺産)にも登録されている比叡山(ひえいざん)延暦寺(えんりゃくじ)と日吉大社(ひよしたいしゃ)の門前町としても栄えたが、還暦を過ぎた僧侶(そうりょ)が延暦寺から下山して生活した寺坊である里坊(さとぼう)が建ち並んで独特の集落景観を残している。里坊の大部分は、奥行の深い石垣の積み方で知られる穴太衆積みの石垣で囲まれ、天台真盛(しんせい)宗盛安寺の石垣は、その代表的なものの一つである。天台真盛宗総本山の西教寺(さいきょうじ)、最澄(さいちょう)の生誕地といわれる生源寺(しょうげんじ)、江戸時代まで天台座主(ざす)が居所とした滋賀院などのほか、延暦寺にかかわる古文書などを収蔵する叡山文庫などがある。坂本地区の里坊群と門前町の町並みは、1997年(平成9)国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。1927年(昭和2)坂本から比叡山(848メートル)へケーブルカーが開通、1958年(昭和33)に比叡山ドライブウェイ、1966年には奥比叡ドライブウェイが通じ、観光基地として繁栄している。1986年には湖西(こせい)道路も開通した。山麓(さんろく)部の宅地開発で京阪電気鉄道石山坂本線坂本駅、JR湖西線比叡山坂本駅を核にした景観の変容が大きく、旧集落と対照をなしている。

高橋誠一

『川崎透編『比叡山門前町坂本』(1980・近江文化社)』



坂本(熊本県)
さかもと

熊本県南部、八代(やつしろ)郡にあった旧村名(坂本村(むら))。現在は八代市の南西部を占める。旧坂本村は1961年(昭和36)下松求麻(しもまつくま)、上松求麻、百済木(くだらぎ)の3村が合併して成立。2005年(平成17)八代市に合併。旧坂本村の北半域は中生代、南半域は古生代の岩石からなり、全域、山地(九州山地北部)をなす。ほぼ中央を北に流れる球磨(くま)川の両岸には、JR肥薩(ひさつ)線、国道219号が走っている。林野率は90%を超えるが、農業(米、イグサ、果樹など)をあわせた第一次産業の就業者率は10%強にすぎない。これに対し、30%近くを占める第二次産業就業者率は、かつて産業の中核をなした九州初の洋紙製造工場(1988年閉鎖)の立地によるだけでなく、隣接の八代臨海工業地域への通勤によって維持されている。また、この地域の球磨川の豊かな水量は、荒瀬ダムによる藤本発電所(1.8万キロワット、1954年完成)、油谷ダム(あぶらだにだむ)による大平発電所(50万キロワット、1975年完成)の建設を導き、電源供給地でもある(荒瀬ダムは2010年3月に発電を停止、2018年撤去工事完了)。農林業と深いかかわりをもつ「雨乞(ご)い行事」「成木責め(なりきぜめ)」などの伝統的な民俗行事が残っている。

[山口守人]


坂本(群馬県)
さかもと

群馬県安中市(あんなかし)松井田(まついだ)町地区西部の地名。近世、碓氷峠東麓(とうろく)の中山道(なかせんどう)の宿場町として栄え、いまも2階の部分が道路に突き出た家屋構造がみられる。2001年(平成13)には日帰り温泉施設「峠の湯」が開場した。近くの碓氷川に人造の碓氷湖があり、峠の熊野(くまの)神社は本殿棟木(むなぎ)の中央が上信国境(群馬・長野県境)になっていて珍しい。国道18号が通じる。北西部に霧積温泉(きりづみおんせん)がある。また、1997年に廃止された信越本線横川―軽井沢間の碓氷第三橋梁(きょうりょう)(通称めがね橋)、隧道等は碓氷峠鉄道施設として国の重要文化財に指定されている。

[村木定雄]


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百科事典マイペディア 「坂本」の意味・わかりやすい解説

坂本【さかもと】

滋賀県大津市,比叡山東麓の集落。延暦寺門前町として発達,多数の寺坊や日吉(ひよし)大社があり,比叡山上へケーブルカーの便がある。琵琶湖岸の下坂本は北国から京都への物資集散地としてにぎわった。京阪電鉄石山坂本線の終点。→馬借
→関連項目近江商人大津[市]馬借一揆比叡山横川関

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「坂本」の意味・わかりやすい解説

坂本
さかもと

滋賀県南西部,大津市中部の旧村域。比叡山東麓にある。 1889年村制施行。 1951年大津市に編入。平安時代から室町時代にかけて延暦寺の門前町,琵琶湖の要津として栄えたが,織田信長の比叡山焼き打ち以後衰え,江戸時代再び門前町として復活。現在も天台宗の宗務庁,延暦寺の各里坊,日吉大社 (東西本宮の各本殿は国宝,境内は国指定史跡) などがある。山王祭は有名。湖岸の唐崎の松は「唐崎夜雨」で知られる近江八景の一つ。

坂本
さかもと

熊本県中南部,八代市南西部の旧村域。球磨川下流域,九州山地南端部に広がる。 1961年上松求麻 (かみまつくま) 村,下松求麻村,百済来 (くだらぎ) 村の3村が合体して坂本村が成立。 2005年八代市,千丁町,町,東陽村,村の5市町村と合体して八代市となった。林業がおもで製糸工場がある。第2次世界大戦後球磨川開発が急速に進み,荒瀬ダムが完成した。

坂本
さかもと

群馬県西部,安中市北西部の旧町域。碓氷峠の東麓にある集落。 1889年町制施行。 1954年松井田町ほか1町3村と合体して松井田町となり,2006年安中市と合体。信越本線の開通まで,中山道の宿場町として栄えた。第2次世界大戦後,国道 18号線が改修されたため碓氷峠越えの車が激増し,坂本には多数のドライブインレストハウスが立ち並んだが,1971年碓氷バイパスが横川から南へ分岐したため,利用者が激減した。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「坂本」の解説

坂本
さかもと

滋賀県大津市北部の地名。比叡山の東麓で,延暦寺の門前町。山麓の日吉(ひよし)大社や日吉馬場の両側に穴太積(あのうづみ)の石垣に囲まれた里坊が並ぶ。中に名園をもつ滋賀院門跡がある。「吾妻鏡」によると,1211年(建暦元)坂本の2000余の建物が焼失したとあり,往古の繁栄がしのばれる。室町時代は酒屋・土倉・問丸の活動で知られ,1379年(康暦元・天授5)の馬借(ばしゃく)一揆は坂本でおこった。

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旺文社日本史事典 三訂版 「坂本」の解説

坂本
さかもと

滋賀県大津市北西部,琵琶湖に面する地区。古代・中世に栄えた港町
比叡山延暦寺・日吉 (ひえ) 神社の門前町としても有名。平安中期以降,延暦寺領荘園の年貢・物資の集積地として発展。室町時代には酒屋・土倉・問丸 (といまる) なども多く,土一揆に,坂本の馬借が一揆の口火を切るほどであった。江戸時代以降は衰退。

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事典・日本の観光資源 「坂本」の解説

坂本

(滋賀県大津市)
湖国百選 街道編」指定の観光名所。

坂本

(群馬県安中市)
中山道六十九次」指定の観光名所。

坂本

(三重県亀山市)
日本の棚田百選」指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

デジタル大辞泉プラス 「坂本」の解説

坂本

熊本県八代市にある道の駅。国道219号に沿う。

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世界大百科事典(旧版)内の坂本の言及

【碓氷峠】より

…標高958m。峠の東麓の坂本(松井田町)は標高約500mで,峠までの直線距離約6kmの間は450mを登る難所だが,峠の西側は平たんな高原となっている。 古く《日本書紀》に,日本武尊が東国から信濃に入る時〈碓日坂(うすひのさか)〉にいたり,〈碓日嶺〉に登って弟橘媛をしのび,〈吾嬬(あづま)はや〉といったという伝説が載る。…

【大津[市]】より

…1898年市制。1932年滋賀村,33年膳所(ぜぜ)町,石山町,51年坂本村,下阪本村,雄琴(おごと)村,下田上村,大石村,67年堅田町,瀬田町を編入。人口27万6332(1995)。…

【問丸】より

…京都への入口の淀津では塩および塩魚の問丸の同業組合である〈淀魚市問丸中〉が,鎌倉末期すでに塩,塩魚の着岸強制権と購入独占権をもっていたが,これは塩に対する関所の課税徴収権を請け負ったことにもとづくものである。近江坂本には美濃,飛驒から坂本に着津する材木に対する〈筒柾諸材木問丸職〉があり,その権利が売買されていた。これも材木に対する課税徴収の請負権が拡大して,材木の専売権になったものであろう。…

【馬借一揆】より

土一揆(つちいつき)の先頭を切った行動として注目されているが,元来山門の強(嗷)訴(ごうそ)の一環として登場した事件である。1379年(天授5∥康暦1)6月,近江坂本の馬借1000余人が京の祇園社に討ち入ったというのが初見で(八坂神社〈社家記録〉),山徒(山門の下級僧侶)の一員でありながら幕府と結託して権勢を振るった円明坊と,関のことで争ったことが原因であった。1418年(応永25)には大津の馬借数千人が,やはり祇園社に立てこもって山徒円明坊を攻撃し,米の売買と関について訴えた(《看聞御記》)。…

※「坂本」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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