飛鳥時代に入唐(にっとう)して法相(ほっそう)宗を伝えた僧。道照とも記す。俗姓は船氏。河内(かわち)国(大阪府)丹比(たじひ)郡の人。出家して元興寺(がんごうじ)に住し、653年(白雉4)五月に入唐して長安に至り、大慈恩(だいじおん)寺の玄奘(げんじょう)に師事して唯識(ゆいしき)を学ぶ。また相州隆化(りゅうけ)寺の慧満(えまん)(生没年不詳)より禅を習学した。在唐8年にして660年(斉明天皇6)に帰国し、玄奘訳の経論や禅籍を将来し、元興寺境内に禅院を建立して、それらを安置した。法相唯識学を宣揚するとともに、禅観を修した。法相宗の初伝とされる。また十余年にわたり社会福祉事業を積極的に行い、698年(文武天皇2)11月には大僧都(だいそうず)に任命された。日本における大僧都補任(ぶにん)の初例である。文武(もんむ)天皇4年3月10日禅院において入寂。遺命により火葬に付され、日本における火葬の初めとされる。弟子に行基(ぎょうき)らがある。
[伊藤隆寿 2017年9月19日]
(吉田一彦)
(正木晃)
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法相宗の学僧で,道照とも書く。河内国丹比郡の生れ。俗姓は船連(ふなのむらじ)。653年(白雉4)入唐(につとう)学問僧として遣唐使にしたがい唐にわたる。玄奘(げんじよう)を師として業をうけた。玄奘からとくに愛され,同房に住み,禅を習い,悟るところが多かった。661年(斉明7)帰朝にあたり,玄奘所持の舎利・経論を授けられている。翌年,飛鳥の法興寺の南東隅に禅院を建て,天下の僧徒に禅を教えた。のち,各地を周遊して,路傍に井をうがち,津のわたりに船をもうけ,橋を造った。山背(やましろ)国の宇治橋は道昭がかけたともいう。およそ10年余りののち,天皇の勅で禅院にもどり,座禅のまま亡くなった。ときに72歳。遺言によって火葬に付された。天下の火葬はこれより始まったという。道昭は,法相宗を最初に日本へ伝えた人物として法相宗第一伝に数えられる。
執筆者:中井 真孝
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629~700.3.10
道照とも。7世紀の僧。河内国丹比郡の人。俗姓船連(ふねのむらじ)。飛鳥寺で得度。653年(白雉4)入唐し,玄奘(げんじょう)に師事して法相宗を学び,慧満から禅を学ぶ。661年(斉明7)帰朝。翌年元興寺に禅院を建立して将来した経論を収め,法相・禅を広めて日本法相宗の第一伝とされる。諸国をめぐって社会事業を進め,宇治橋架設にも関与した。薬師寺繍仏(しゅうぶつ)開眼の講師となり,698年(文武2)大僧都。遺命により大和国粟原(おうばら)で日本初の火葬に付されたという。
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…7世紀末に大和国の葛城(木)山を中心に活動した呪術者。生没年不詳。役小角(えんのおづぬ),役君(えのきみ)などとも呼ばれ,後に修験道の開祖として尊崇される。《続日本紀》によると,699年(文武3)朝廷は役君小角を伊豆国に流した。葛城山に住む小角は,鬼神を使役して水をくませ,薪を集めさせるなどし,その命令に従わなければ呪術によって縛るという神通力の持主として知られていたが,弟子の韓国連広足(からくにのむらじひろたり)が師の能力をねたみ,小角が妖術を使って世人を惑わしていると朝廷に讒訴(ざんそ)したために,流罪が行われたという。…
…一般に死者の葬法には土葬,水葬,火葬,風葬の4種があり,アーリヤ族古来の習俗であった火葬が仏教とともに日本に伝わり,もともと死体遺棄あるいは風葬や土葬であった日本の葬法に大きな変化をもたらした。主として僧侶により採用された葬法であり,記録では《続日本紀》文武4年(700)条にある元興寺の僧道昭の火葬を初めとするが,6,7世紀の火葬墓が発見されたり,《万葉集》に火葬を詠んだ挽歌がみられることなどから,僧侶だけに限られず,またその起源もさらにさかのぼるようである。702年(大宝2)持統天皇が飛鳥岡に火葬され,天皇火葬の初例となった。…
…インドやチベットにおいて《俱舎論》は,仏教教理学の必修科目としてさかんに研究・講義され,中国においても真諦(しんだい)三蔵によって《摂大乗論(しようだいじようろん)》などとともに漢訳され(566‐567),さらに玄奘(げんじよう)三蔵によって多数の唯識学系統の経論とともに再訳されて(654)以後,それぞれ摂論学派と法相唯識学派の学統において研究・講義され,いくつかの重要な注疏がつくられた。日本においては遅くとも道昭(661年帰朝,元興寺禅院の開祖)によって《俱舎論》および注疏が伝来されたであろうが,〈俱舎宗〉という学団が公的に制定されるのは,天平勝宝年間(749‐757)の東大寺においてではないかと考えられる。そのころ,この学団が大仏開眼供養にちなんで南都六宗の一つとして自宗関係の多数の経論を転読講説していることが知られる。…
…7世紀中ごろの人。僧道昭の父。少錦下,姓は史。…
…彼らは,二十数年から三十数年の長期間にわたって中国に滞在し,隋が滅び,唐が興ってくる中国の社会を実見して帰国し,大化改新に始まる律令国家の建設に大きな役割を果たした。唐の建国後間もなく帰国した留学生恵日(薬師恵日(くすしえにち))らの進言によって,遣唐使が派遣されることになると,道昭(どうしよう)など多くの学問生・学問僧が遣唐使に従って渡唐した。また7世紀には新羅に留学する僧も多く,行善(ぎようぜん)のように高句麗に留学する僧もあった。…
※「道昭」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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