デジタル大辞泉 「元興寺」の意味・読み・例文・類語
がんごう‐じ〔グワンゴウ‐〕【元興寺】
奈良市中院町にある真言律宗の寺。院号は極楽院。の学僧の住房であった極楽坊が、庶民の信仰を集め発展したもの。14世紀に、真言・律兼宗。江戸時代は極楽院、のち元興寺極楽坊と称した。本堂・禅室・五重小塔は国宝。平成10年(1998)「古都奈良の文化財」の一つとして世界遺産(文化遺産)に登録された。
がごう‐じ〔グワゴウ‐〕【元興寺】
《昔、奈良の
「―が出でて、人を食ふと申すほどに」〈虎明狂・清水〉
元興寺極楽坊の南に所在する華厳宗の寺院。本尊弥勒菩薩。南都七大寺および十五大寺(「延喜式」玄蕃寮)に数えられる元興寺は、現奈良県明日香村の
〈大和・紀伊寺院神社大事典〉
「続日本紀」霊亀二年(七一六)五月一六日条に元興寺を平城京の左京六条四坊に移築した記事がみえるが、位置から考えてこれは現在の
移転後の寺地は後世の記録であるが、「大乗院寺社雑事記」文明一五年(一四八三)九月一三日条に「当寺ハ南北四町、南大門南方也、北至猿沢池之南、東西二町」とみえ、
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
奈良市にある寺。南都七大寺の一つ。奈良時代建立の元興寺の旧跡を継ぐ寺院は現在,元興寺(旧称極楽坊,真言律宗),元興寺(東塔院址,華厳宗),小塔院(小塔院址,真言律宗)の3寺院に分かれている。元興寺は飛鳥に創建された法興寺(飛鳥寺)に起源をもつ。平城遷都後の718年(養老2)法興寺を平城京左京四条・五条の七坊の地に移して元興寺と称し,飛鳥の法興寺を本元興寺と称した。奈良時代の元興寺の伽藍配置は,南大門・中門・金堂・講堂が伽藍中軸線上に並び,回廊は金堂を囲んで中門と講堂を結ぶ。西に小塔院,東に五重大塔を仰ぐ東塔院があり,講堂の背後に僧房(大房・小子房)4棟・食堂・食殿などが並ぶ。元興寺の後ろは興福寺南庭に接していたと考えられている。
元興寺は奈良時代から平安時代の初めにかけて,三論・法相等の教学の一方の中心として,三論では智光,法相では勝虞や護命等の学僧が輩出している。とくに智光は三論教学の伝統にたって浄土教学を研究し著述をあらわしたことから,日本浄土教の祖とされ,元興寺に伝わる浄土変相図は智光の描くところとして智光曼荼羅(まんだら)と呼ばれ後世特別の信仰を得るようになる。平安時代も10~11世紀になると元興寺の寺院としての勢力は急速におとろえ,藤原氏の勢力を背後にもつ興福寺の隆盛にともない大和における他の諸大寺と同じく興福寺の勢力下に収められていった。そうした情勢のなかで特別の位置を占めるようになったのが智光曼荼羅で,浄土信仰の隆盛にともないあらたな注目をあびるようになり,11世紀には模本が多く世間に流布していたようである。この智光曼荼羅の原本を安置していた場所はかつて智光が住した僧房(東室南階大房)と伝え,〈極楽房〉と称せられるようになり,奈良における浄土信仰の一つの中心として別所的な存在となり,興福寺出身の僧侶たちが中核となって百日念仏を行い,法華講経や念仏三昧が修せられていた。やがて1244年(寛元2)極楽房はついに僧房から切り離されて極楽堂となりこの一角を極楽坊と呼んで,元興寺の旧境内では独立した地域を形づくっていった。1943年以降この僧房(禅室)と極楽堂の解体修理によって奈良時代僧房の遺構が明らかになるとともに,境内各所や堂内から中世の念仏信仰や追善・作善を物語る多くの信仰資料(庶民信仰資料)が発見された。その内容は杮経(こけらぎよう),印仏,摺仏(すりぼとけ),千仏,納骨器,葬祭関係資料などで,現在重要有形民俗文化財に指定されている。
元興寺は室町時代ごろより奈良町の発展にともなって民家の侵食をうけ,金堂・講堂などの主要伽藍は一揆等の災厄をうけて焼失し,その後再建された堂宇も倒壊し,焼失をまぬがれた東大塔は東大寺末に,小塔院と極楽坊(近世には極楽院)は真言律宗となって現在に至っている。東大塔は1859年(安政6)焼失し塔礎を残す。それぞれの境域は史跡に,元興寺の極楽堂・禅室・五重小塔は国宝に,阿弥陀如来座像・聖徳太子孝養像・弘法大師座像・智光曼荼羅などは重要文化財に,元興寺(華厳宗)の薬師如来立像は国宝に指定されている。元興寺(旧極楽坊)には元興寺文化財研究所(1967設立)があり仏教民俗学や保存科学の研究が行われている。
執筆者:木下 密運
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
奈良市芝新屋(しばのしんや)町にある華厳(けごん)宗の寺。南都七大寺の一つに数えられ、日本最古の寺院の一つ。仏教移入の争いで物部(もののべ)氏を破った蘇我馬子(そがのうまこ)が、596年(推古天皇4)に建立したと伝え、豊浦(とゆら)寺、葛城(かつらぎ)寺、飛鳥寺(あすかでら)、建興寺、法師寺、建通寺ともよばれていた。寺には百済(くだら)僧の道欣(どうきん)が住したのをはじめ、高句麗(こうくり)僧の慧灌(えかん)が入寺して三論を講読して雨を祈り、さらに入唐(にっとう)僧道昭が禅院を東南院に建立して将来した仏舎利および一切経(いっさいきょう)を安置するとともに、法相(ほっそう)教学の学問寺とした。710年(和銅3)の平城遷都に伴い奈良に新寺を建立して新元興寺と称したが、飛鳥の寺は本元興(もとがんごう)寺とよばれ、徐々に荒廃し、現在は安居院(あんごいん)に飛鳥大仏を残すのみとなった。
新元興寺は東金堂、大金堂などが造営され、745年(天平17)には結構が整った。智光(ちこう)、頼光(らいこう)らの三論教学が盛行し、勝悟(しょうご)、明詮(みょうせん)らの法相義も宣揚されて興福寺と拮抗(きっこう)する勢いを示した。しかし、室町時代に至って多くの堂宇を焼失、1859年(安政6)の火災では観音(かんのん)堂、五重塔を焼失し、それ以降は衰えた。現在は仮堂の本堂と、1927年(昭和2)に発掘調査された塔跡(国史跡)を残すのみである。薬師如来(やくしにょらい)像は国宝、本尊の十一面観音像および出土品が国重要文化財に指定されている。元興寺は1998年(平成10)、世界遺産の文化遺産として登録された(世界文化遺産。奈良の文化財は東大寺など8社寺等が一括登録されている)。
なお、新元興寺の子院極楽坊(ごくらくぼう)(のちに極楽院)は智光の住した坊で、鎌倉時代に独立した寺院となった。
[里道徳雄]
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現在,奈良市芝新屋町(観音堂の系譜を引く。華厳宗)と,中院町(極楽坊(ごくらくぼう)の系譜を引く。真言律宗)に同名の寺がある。蘇我馬子(うまこ)のたてた飛鳥(あすか)寺(法興(ほうこう)寺)を平城遷都にともない京内に移したもので,旧地の飛鳥寺を本元興寺,当寺を新元興寺とも称した。718年(養老2)に建立が始まり,天平年間には諸堂が整い,多数の水田・寺封や奴婢を保有する大勢力の寺院となった。南都四大寺・七大寺の一つに数えられる。三論・法相の両宗が栄え,当寺三論宗の系統を元興寺流,法相宗の系統を興福寺の北寺伝に対して南寺伝と称した。1451年(宝徳3)の土一揆で金堂などを焼失。1859年(安政6)の火災では五重塔・観音堂を失うなど,たびたび被害にあった。極楽坊本堂・禅室・五重小塔は国宝。塔跡・極楽坊境内・小塔院跡は国史跡。
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出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
…興福寺は藤原氏の私寺であったが,天皇との姻族のため皇室発願による堂宇も多く,川原寺に代わって官大寺同然に扱われた。平城京東端の台地上で元興寺北隣に寺地をとり,中金堂院,東西金堂院に三面僧房をもつ完備したものになった。元興寺は東に大塔院を独立させ,金堂は組物など他と異なる点があったと伝えられ,細部に飛鳥古様を模したかともみられる。…
…677年(天武6)の大官大寺に始まる大寺制は,四大寺,五大寺と発展し,756年(天平勝宝8)5月に七大寺の名が初見する。8世紀後半に西大寺が創建されるに及んで,東大寺,大安寺,興福寺,元興(がんごう)寺,薬師寺,法隆寺,西大寺を七大寺と称するにいたった。大寺の造営にはそれぞれ官営の造寺司を設けてことに当たり,経営維持のため莫大な封戸・荘地が施入され,別当や三綱が寺・寺僧の運営指導に当たった。…
…これに対して個人的な小さな壺や竹筒の蔵骨器も出土するから,1人1人の遺骨を携えて納骨するものもあったわけで,現在もこの形式の納骨は盛んにおこなわれている。中世では奈良元興(がんごう)寺極楽坊のように,長押に木製納骨五輪塔を釘で打ち付ける納骨法もある。この寺は市中の寺院ではあるが,智光曼荼羅のために霊場化し,盛んに納骨がおこなわれて,竹筒型蔵骨器や羽釜型蔵骨器,柄杓型蔵骨器などが出ている。…
※「元興寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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