明治初期における酒造業者の酒税軽減運動の一つ。当時の租税収入は地租,酒税などに限られていたことから,政府財源における酒税の占める割合は高かった。政府は明治初年からしばしば酒税を増徴し,1878年には清酒1石につき造石税1円だったのを80年には2円とした。そのため地方の酒造業者はその改正を要求し,おりから高まっていた国会開設運動と結んでその実現をはかろうとした。81年5月高知県の酒造業者300余人が減税請願書を政府に提出して却下され,植木枝盛に相談した。これをうけた植木は,全国酒造業者の一大請願運動を計画し,〈日本全国の酒屋会議を開かんとするの書〉を起草し,82年5月1日に大阪で開く酒屋会議への参集を呼びかけた。あわてた政府は,会議を未然に阻止しようとして,署名者らを処罰し,地方に対して集会阻止を指令した。集会禁止を命ぜられた植木らは,会議は禁止されても面会は自由である旨の広告を出し,上阪した酒造業者と淀川の舟中で協議し,5月10日に京都で2府15県の業者40余名と会議を開き,酒税軽減請願書を採択してこれを元老院に提出した。これがきっかけとなって,全国各地で酒屋会議が開かれ,また減税請願,納税延期請願が相ついだ。この動きにたいして政府は,82年12月に太政官布告によって造石税を2円から4円に大幅に引き上げ,また業者の新規開業を厳重に制限するなどの反撃に出た。運動は83年はじめまで続くが,松方デフレ政策による米価の暴落,清酒価格の下落などによって打撃をうけ,さらに民権運動が全般的に退潮したため,この運動もまもなく衰退してしまった。
執筆者:中村 尚美
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酒税減税を目ざして1882年(明治15)5月に開かれた会合。酒税が1878年と80年に大幅に引き上げられたため、81年5月高知県の酒造業者293名が酒税減額願を大蔵省に提出したが却下された。そこで彼らはこの件を自由民権家植木枝盛(うえきえもり)と児島稔(こじまみのる)に依頼した。植木と児島は政府の圧迫弾圧に抗しながら酒税減額要求を全国的運動に組織した。82年5月4日全国から大阪に参集した20余名の代表を淀(よど)川に浮かべた船に収容して懇談熟議を尽くし、9日40余名とともに突如京都に入り、翌日祇園(ぎおん)中村楼で会議を開いて、政府に対する酒税減額要求を決議、総代小原鉄臣(おはらてっしん)が翌月請願書を太政官(だじょうかん)に、建白書を元老院に提出した。この会議を契機として、全国的に酒造業者の減税運動が展開された。後日、児島は、実業家団体が自由民権運動に参加した最初の事件であると書いている。児島ら数人が投獄され、減税という営業自由の目的は実現できなかったが、集会自由の防衛に成功したものと評価されている。
[外崎光廣]
『家永三郎著『植木枝盛研究』(1960・岩波書店)』▽『山田昭次「明治10年代における明治政権と酒造業者の動向」(『歴史評論』第135号所収・1961・歴史科学協議会)』▽『外崎光廣「酒屋会議と児島稔」(『社会科学論集』第42号所収・1982・高知短期大学)』
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