金剛峯寺境内(読み)こんごうぶじけいだい

国指定史跡ガイド 「金剛峯寺境内」の解説

こんごうぶじけいだい【金剛峯寺境内】


和歌山県伊都(いと)郡高野町高野山にある寺院で、高野山真言宗総本山。県の北部、1000m級の山々に囲まれた標高約800mの平坦な地に位置する。高野山は「一山(いっさん)境内地」と称し、山内いたるところが境内地で、総本山寺院である金剛峯寺を中心として117の塔頭が密集している。空海は真言密教の道場設立を嵯峨天皇に願い出、816年(弘仁7)、高野山の地が下賜される。そして、819年(弘仁10)から伽藍(がらん)の建立に取りかかったが、山中のため工事は捗(はかど)らなかった。空海の死後、弟子の真然(しんぜん)が長期にわたって根本大塔などの伽藍を整備したが、落雷による火災のためほとんどの建物を失い荒廃した。1016年(長和5)ごろから定誉(じょうよ)が再興して栄え、1023年(治安3)には藤原道長が参詣。平安時代末期には高野山は現世浄土として信仰を集め、寺領を増やした。源平の争乱期には高野山で出家する貴族や武士が増え、北条政子をはじめ有力者による寺院の建立もあった。戦国時代には、武力を蓄えた高野山は仏教を弾圧する織田信長と対立するようになり、信長に謀反して高野山に逃げ込んだ家臣の引き渡し要求に応じず、1581年(天正9)に数万の織田軍勢に攻め込まれた。信長の高野攻めは本能寺の変によって終わり、続く豊臣秀吉にも圧力をかけられたが、武士出身の僧木食応其(もくじきおうご)のとりなしで難を免れた。秀吉は応其に帰依するようになり、1593年(文禄2)には亡き母の菩提を弔うため、応其に命じて青厳寺を建立させた。近世には徳川家が高野山を菩提所と定め、諸大名をはじめ多くの有力者が高野山に墓碑供養塔などを建立した。明治時代になり、青厳寺と応其が建立した興山寺が合併して金剛峯寺と改号された。山内の西寄りに壇上伽藍と呼ばれる一帯があり、ここは空海が堂宇を造ったところで、現在は金堂や根本大塔、西塔(江戸時代末の再建)、御影堂、不動堂(鎌倉時代の建立で国宝)などが立ち並び、高野山の中核となる場所である。高野山真言宗の管長が住む総本山金剛峯寺はその東北にあり、書院造りの壮大な主殿が江戸時代に再建されている。山内の西端には正門にあたる大門が、東端には奥の院に通じる一の橋があり、全長2kmにわたる奥の院の参道沿いには、20万基を超える石塔が並ぶ。奥の院には上杉謙信、松平(結城)秀康、佐竹義重などの霊屋(たまや)が造られ、多くの人物の墓碑や供養塔がある。運慶一門の作とされる木造八大童子立像や仏涅槃(ぶつねはん)図などの国宝、密教画像をはじめとする数多くの重要文化財を所蔵している。1977年(昭和52)に国の史跡に指定され、2004年に「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部として世界遺産に登録された。南海電気鉄道高野線極楽橋駅から同鋼索線(高野山ケーブル)「高野山」下車、徒歩約37分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

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