黄遵憲(読み)コウジュンケン(英語表記)Huáng Zūn xiàn

デジタル大辞泉 「黄遵憲」の意味・読み・例文・類語

こう‐じゅんけん〔クワウ‐〕【黄遵憲】

[1848~1905]中国しん末の詩人外交官広東省嘉応州の人。あざな公度。初代駐日公使の書記として来日しており、日本の政治家・文人と交わり、日本研究を行った。また、詩文に優れ、文字改革や新詩運動を推進した。変法自強へんぽうじきょう運動に参加したが、戊戌ぼじゅつの政変失脚。著「日本国志」「日本雑事詩」「人境廬詩草じんきょうろしそう」など。ホワン=ツンシエン。

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改訂新版 世界大百科事典 「黄遵憲」の意味・わかりやすい解説

黄遵憲 (こうじゅんけん)
Huáng Zūn xiàn
生没年:1848-1905

中国,清末の詩人・外交官。字は公度。広東省嘉応州の客家(ハツカ)出身。光緒2年(1876)の挙人。日,米,英,シンガポール各地に外交官として駐在湖南省按察使を最後に,戊戌(ぼじゆつ)政変余波をうけて郷里に引退,子弟の教育に余生を捧げた。維新洋務派の康有為,梁啓超らと親しく,清国の近代化と独立を求めて活動。その詩は〈新派詩〉として知られる。伝統形式をふまえつつ平易に日常の現実をうつす清新な詩風は,後の文学革命先駆をなす。〈我が手もて吾が口を写さば,古も豈(あ)に能(よ)く拘牽こうけん)せんや〉は,その主張を示す有名な句。長編叙事詩にすぐれ,アメリカの人種差別に抗議する〈逐客篇〉,日清戦争の展開を痛哭する〈悲平壌〉〈哀旅順〉〈台湾行〉などの作品は歴史の証言でもある。日本に関する詩が多く,日本紹介の業績は特筆に値しよう。《日本国志》40巻,《日本雑事詩》2巻,《人境廬詩草》11巻の著がある。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「黄遵憲」の意味・わかりやすい解説

黄遵憲
こうじゅんけん
(1848―1905)

中国、清(しん)末の外交官、詩人。字(あざな)は公度(こうど)、号は東海公、法時尚任斎(ほうじしょうじんさい)主人など。嘉応(かおう)州(広東(カントン)省梅県)の客家(ハッカ)(特殊な方言をもつ漢人一群)の出身。1876年(光緒2)挙人に合格、翌年初代駐日公使何如璋(かじょしょう)に随行して来日、外交官生活に入った。以後、サンフランシスコ、ロンドン、シンガポールで20年近く活躍して海外の見聞を広め、94年帰国後梁啓超(りょうけいちょう)ら改良派の人々と親交を結び、立憲君主制の樹立を中心とする維新運動を援助した。早くから詩に優れ、清末動乱の世相をうたう現実的な作品は「詩史」といわれ、伝統形式のなかに俗語や新事物を詠み込んだ「新派詩」は後の文学革命の先駆となり、「詩界革命」の第一人者と評されている。『日本雑事詩』2巻、『日本国志』40巻、『人境廬詩草(じんきょうろしそう)』11巻がある。

[佐藤 保]

『島田久美子注『中国詩人選集2集15 黄遵憲』(1963・岩波書店)』『さねとう・けいしゅう編・訳『大河内文書』(1964・平凡社・東洋文庫)』『実藤恵秀・豊田穣訳『日本雑事詩』(1968・平凡社・東洋文庫)』

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朝日日本歴史人物事典 「黄遵憲」の解説

黄遵憲

没年:光緒31.1.20(1905.2.23)
生年:道光28.3.24(1848.4.27)
中国読み「ホワン・チュンシエン」。明治維新の本質を最初に中国へ紹介した清末の外交官,詩人。広東省嘉応州(梅県)の客家。字は公度,号は人境廬主人。挙人に合格後,外交官となる。明治10(1877)年,初代駐日公使何如璋の参賛(書記官)となり来日。のちサンフランシスコ総領事などを歴任。在日4年で維新後の日本社会を深く研究,200首の詩によって日本の文学,風習などを紹介した『日本雑事詩』を出版。のちに全40巻の本格的な学術書『日本国志』を完成し,明治維新の政策,制度を高く評価した。日本の経験を学び,中国の改革に生かすため康有為らの変法維新運動に参画したが,戊戌政変(1898)で失脚した。<著作>実藤恵秀他訳『日本雑事詩』<参考文献>筧久美子『黄遵憲』

(横山宏章)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「黄遵憲」の意味・わかりやすい解説

黄遵憲
こうじゅんけん
Huang Zun-xian

[生]道光28(1848)
[没]光緒31(1905)
中国,清末の外交官,詩人。広東省嘉応県 (梅県) の人。字,公度。号,東海公など。光緒2 (1876) 年挙人に及第,翌年駐日公使の随行員として日本に渡り,同8年サンフランシスコ総領事となり,中国人排斥問題の解決に奔走した。日清戦争後は維新派として康有為らと協力したが,戊戌 (ぼじゅつ) の政変によって帰郷し,書斎を「人境廬」と名づけ余生をおくった。在日中,日本の政治家,学者と交わって歴史風俗を研究し,その成果と体験を『日本国志』として中国に紹介した。 21歳のとき「わが手もて口を写す」と口語詩の宣言をし,新しい内容の詩をつくった。『日本雑事詩』『人境廬詩草』がある。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「黄遵憲」の解説

黄遵憲 こう-じゅんけん

1848-1905 清(しん)(中国)の外交官,詩人。
道光28年4月27日生まれ。明治10年清の初代駐日公使の書記官として来日。のちアメリカ,イギリスなどの領事をつとめる。富国の必要を説き,日清戦争後は康有為(こう-ゆうい)らの改革運動を支援。詩の革新にもつとめた。光緒31年2月23日死去。58歳。広東省出身。字(あざな)は公度。著作に「日本雑事詩」「人境廬詩草」「日本国志」など。

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百科事典マイペディア 「黄遵憲」の意味・わかりやすい解説

黄遵憲【こうじゅんけん】

中国,清末の外交官,詩人。1877年初代公使何如璋(かじょしょう)の書記官として来日。1879年《日本雑事詩》で日本事情を紹介。1885年帰国,1887年《日本国志》40巻を著し,この中で文字改革を主張。康有為らの変法を支持,政変後故郷に隠退。

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世界大百科事典(旧版)内の黄遵憲の言及

【金弘集】より

…1880年,修信使として日本を訪問,明治維新後の発展の様子を視察して開化への意欲を深めた。このとき持ち帰った《朝鮮策略》(駐日清国参賛官黄遵憲の著書)は,開化策の推進を説いて政府内外に論議を呼びおこした。84年の甲申政変の際,開化派政府の漢城府尹に推された。…

【時務報】より

…中国,清末の雑誌。清朝の弾圧で強学会とその機関誌《強学報》が禁止されたのち,黄遵憲などの援助を得,汪康年を経理として上海の租界で創刊された。1896年(光緒22)旧暦7月1日から98年6月21日まで,旬刊で計69冊が刊行。…

【清】より

…一方,中国側の認識の変化は,その思想・文化の伝統のゆえに遅々たるものであった。そうしたなかにあって1877年,初代駐日公使何如璋について来日した黄遵憲は,明治初期の日本に起こりつつあった変化を理解しようとした最初の中国人であった。黄遵憲が数年間の滞日経験をもとに書き記した《日本国志》(1887)の中では明治維新が高く評価されており,のちに制度改革を唱えた康有為,梁啓超らの指導した変法運動(戊戌変法)への思想的影響がうかがえる。…

【白話詩】より

…このとき梁啓超らは,文学をその教育宣伝の手段として用いようとしたが,詩の分野でも,夏曾佑や譚嗣同らが詩界革命を主張し,詩語に新しい名詞を導入すべきだと唱えた。さらに黄遵憲は俗語で詩を書くこと,新しい思想を詩の素材とすることを試みようとしたが,その実現をみなかった。 辛亥革命後の1915年,陳独秀を中心に,雑誌《新青年》が創刊された。…

※「黄遵憲」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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