中国,清末の詩人・外交官。字は公度。広東省嘉応州の客家(ハツカ)出身。光緒2年(1876)の挙人。日,米,英,シンガポール各地に外交官として駐在,湖南省按察使を最後に,戊戌(ぼじゆつ)政変の余波をうけて郷里に引退,子弟の教育に余生を捧げた。維新洋務派の康有為,梁啓超らと親しく,清国の近代化と独立を求めて活動。その詩は〈新派詩〉として知られる。伝統形式をふまえつつ平易に日常の現実をうつす清新な詩風は,後の文学革命の先駆をなす。〈我が手もて吾が口を写さば,古も豈(あ)に能(よ)く拘牽(こうけん)せんや〉は,その主張を示す有名な句。長編の叙事詩にすぐれ,アメリカの人種差別に抗議する〈逐客篇〉,日清戦争の展開を痛哭する〈悲平壌〉〈哀旅順〉〈台湾行〉などの作品は歴史の証言でもある。日本に関する詩が多く,日本紹介の業績は特筆に値しよう。《日本国志》40巻,《日本雑事詩》2巻,《人境廬詩草》11巻の著がある。
執筆者:筧 久美子
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中国、清(しん)末の外交官、詩人。字(あざな)は公度(こうど)、号は東海公、法時尚任斎(ほうじしょうじんさい)主人など。嘉応(かおう)州(広東(カントン)省梅県)の客家(ハッカ)(特殊な方言をもつ漢人の一群)の出身。1876年(光緒2)挙人に合格、翌年初代駐日公使何如璋(かじょしょう)に随行して来日、外交官生活に入った。以後、サンフランシスコ、ロンドン、シンガポールで20年近く活躍して海外の見聞を広め、94年帰国後梁啓超(りょうけいちょう)ら改良派の人々と親交を結び、立憲君主制の樹立を中心とする維新運動を援助した。早くから詩に優れ、清末動乱の世相をうたう現実的な作品は「詩史」といわれ、伝統形式のなかに俗語や新事物を詠み込んだ「新派詩」は後の文学革命の先駆となり、「詩界革命」の第一人者と評されている。『日本雑事詩』2巻、『日本国志』40巻、『人境廬詩草(じんきょうろしそう)』11巻がある。
[佐藤 保]
『島田久美子注『中国詩人選集2集15 黄遵憲』(1963・岩波書店)』▽『さねとう・けいしゅう編・訳『大河内文書』(1964・平凡社・東洋文庫)』▽『実藤恵秀・豊田穣訳『日本雑事詩』(1968・平凡社・東洋文庫)』
(横山宏章)
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…1880年,修信使として日本を訪問,明治維新後の発展の様子を視察して開化への意欲を深めた。このとき持ち帰った《朝鮮策略》(駐日清国参賛官黄遵憲の著書)は,開化策の推進を説いて政府内外に論議を呼びおこした。84年の甲申政変の際,開化派政府の漢城府尹に推された。…
…中国,清末の雑誌。清朝の弾圧で強学会とその機関誌《強学報》が禁止されたのち,黄遵憲などの援助を得,汪康年を経理として上海の租界で創刊された。1896年(光緒22)旧暦7月1日から98年6月21日まで,旬刊で計69冊が刊行。…
…一方,中国側の認識の変化は,その思想・文化の伝統のゆえに遅々たるものであった。そうしたなかにあって1877年,初代駐日公使何如璋について来日した黄遵憲は,明治初期の日本に起こりつつあった変化を理解しようとした最初の中国人であった。黄遵憲が数年間の滞日経験をもとに書き記した《日本国志》(1887)の中では明治維新が高く評価されており,のちに制度改革を唱えた康有為,梁啓超らの指導した変法運動(戊戌変法)への思想的影響がうかがえる。…
…このとき梁啓超らは,文学をその教育宣伝の手段として用いようとしたが,詩の分野でも,夏曾佑や譚嗣同らが詩界革命を主張し,詩語に新しい名詞を導入すべきだと唱えた。さらに黄遵憲は俗語で詩を書くこと,新しい思想を詩の素材とすることを試みようとしたが,その実現をみなかった。 辛亥革命後の1915年,陳独秀を中心に,雑誌《新青年》が創刊された。…
※「黄遵憲」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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