御霊神社(読み)ゴリョウジンジャ

デジタル大辞泉 「御霊神社」の意味・読み・例文・類語

ごりょう‐じんじゃ〔ゴリヤウ‐〕【御霊神社】

御霊神を鎮めるために祭った神社。各地にあるが、中でも京都市上京区の上御霊神社中京区下御霊神社は有名。

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精選版 日本国語大辞典 「御霊神社」の意味・読み・例文・類語

ごりょう‐じんじゃゴリャウ‥【御霊神社】

  1. 京都市上京区上御霊竪町にある神社。旧府社。早良(さわら)親王、井上(いのえ)内親王、他戸(おさべ)親王ほか五柱(八所御霊)をまつる。桓武天皇の代(七八一‐八〇六)の創建と伝えられる。同名のものが各地にある。上御霊神社。上御霊さん。

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日本歴史地名大系 「御霊神社」の解説

御霊神社
ごりようじんじや

[現在地名]東区淡路町五丁目

祭神は天照大神荒魂(瀬織津比売神)・津布良彦神・津布良媛神・応神天皇・源正霊神。旧府社。古くは津村つむら郷の産土神であったとされる。かつて上町うえまち台地西側には海が入込んでおり、多くの入江があった。大小の島々が陸地化する状況のなかで、波浪のゆるやかな円形の入江である円江つぶらえの守護神として当社が創祀されたと伝える。津布良彦・津布良媛二神は文字どおり円江の土着神であり、応神天皇・源正霊神が配祀されたのは文禄三年(一五九四)と伝える。


御霊神社
ごりようじんじや

[現在地名]奈良市薬師堂町

元興がんごう寺五重塔跡の南西に鎮座。旧村社。祭神井上皇后・他戸親王など八神。木比きひ御霊とも称し(奈良坊目拙解)、「南都名所集」には吉備真備以下の八所御霊を祀るとあり、「八重桜」にも元興寺の鎮守のため吉備大臣を祀ったとみえる。現奈良市西紀寺にしきでら町の崇道天皇すどうてんのう社とともに南都二大御霊社とされた。「奈良坊目拙解」所収の治安二年(一〇二二)の吉備御霊祠奉加帳に、「延暦年中ニ井上内親王ニ皇后ノ位、他(戸)王ニ皇太子ノ位ヲ追復シ、早良親王ニハ崇道天皇ト追称シ、州租税ヲ分テ元興寺ニ納メ、諸寺ニ送テ皇后井上内親王皇太子他人王ノ御霊ヲ弔ヒ給ヒシカトモ、世間ヲモ騒ナラス疫病モ未タ息サレハ、百姓等畏レ憂ヒテ毎年ニ国々処々ニ御霊会ヲ行フ、夏ハ崇道天王ヲ祭リ、秋ハ井上内親王ヲ祭リ奉ル」とみえる。


御霊神社
ごりようじんじや

[現在地名]福知山市字中ノ

福知山市内広小路ひろこうじの西端に続く御霊公園内に鎮座。祭神は宇賀御霊神で、配神に明智光秀を祀る。

「丹波志」に御霊神として「祭神明智光秀霊 参詣八月十八日 社地凡十四五間横八間」と記し、その由緒を

<資料は省略されています>

と記す。光秀の時に地子免除の特典を与えられた恩恵を謝し、その霊を祀り火災水難のないことを祈ったというのである。社蔵の明智日向守光秀祠堂記によれば、その年は宝永二年(一七〇五)というが、それ以前城下は度々の災害に見舞われ、その原因を光秀の祟りとする気持が城下町民に深く浸透していたことによるらしい。


御霊神社
ごりようじんじや

[現在地名]木津町木津 宮ノ裏

木津きづ川河岸近くに鎮座。社殿は南面する。祭神は天之穂日あまのほひ命・天津彦根あまつひこね命・活津彦根いくつひこね命。木津郷の産土神で、旧村社。社伝によれば、貞観一八年(八七六)一一月の創建という。「山城名勝志」は「木津ノ御霊坐木津村」と記し、「山城名跡巡行志」には「御霊神祠 在同所(木津)大路村鳥居 拝殿 社 例祭小寺・千童子・上津・南川・枝村共ニ祭ル」とあり、もと大路おおじ(現木津町)にあったと思われる。現社殿は享保一五年(一七三〇)の造営という。

〈京都・山城寺院神社大事典〉

〔木津祭〕

木津郷には岡田国おかだくに神社と御霊神社につく一七座の宮座があり、これを基盤として毎年一〇月二〇日、二一日に青年たちがふとん太鼓を担ぎ、子供が乗って太鼓を打ち、町を回る行事がある。


御霊神社
みたまじんじや

[現在地名]三和町羽出庭

板木いたき川左岸の山際に鎮座。祭神は高御産巣日神・神御産巣日神。旧村社。正応三年(一二九〇)九月、下板木しもいたき備尺びつしやくから羽出庭はでにわ村の宮蔵くぞうに勧請したと伝える(当社調査書)が、口碑によると、備尺へは世羅郡敷名しきな鉾畦ほこあぜに降臨した不伐きらず大明神を勧請したと伝える。

「芸藩通志」に「社傍に御手洗川とよぶあり、又柿の老樹あり、祭日にその実を献ず」と記し、「双三郡誌」に承応三年(一六五四)三次初代藩主浅野長治再建の棟札ありと記し、さらに祭日には必ず賀茂郡竹原たけはら(現竹原市)から掛鯛を供えていたが、明治六年(一八七三)頃から廃れたとある。


御霊神社
ごりようじんじや

[現在地名]鎌倉市坂ノ下

長谷はせ寺の南、江ノ電極楽寺ごくらくじトンネル北傍に位置する。祭神鎌倉権五郎景政。旧村社。さかしたの氏神社。旧社名は五霊社・五霊尊。俗称は権五郎様。例祭九月一八日。境内社に石上いしかみ神社・地神じじん社・金刀比羅社・秋葉神社・祖霊社・稲荷社がある。勧請年未詳。

「吾妻鏡」には文治元年(一一八五)八月二七日・建保三年(一二一五)六月二〇日条に御霊社鳴動、建久五年(一一九四)正月四日条に奉幣、建長四年(一二五二)一一月一七日条に社前海辺での七瀬祓を記す。貞応二年(一二二三)四月、由比ゆいガ浜に着いた「海道記」の筆者は、当社鳥居の前で時を待って若宮わかみや大路から宿に至っており、鳥居が海辺近くにあったことを推察させる。


御霊神社
ごりようじんじや

[現在地名]日高町小浦

小浦おうら集落の北部に鎮座。祭神は大鷦鷯おおさざき命・事代主ことしろぬし神・蛭子えびす神・宇賀魂うかのみたま神。旧村社。社伝によると、南北朝の頃男女の漂流者がこの里に隠棲。土地の人々は二人を「殿」「女房」とよんで敬い、その漂着した海岸を「女房浜」と称した。ある夜この女房に、その浜辺に霊像が出現するとの夢告があり、お告げのとおり霊像が出現。そこで、これを女房と殿の住居に安置した。やがて二人は世を去ったが、応永三年(一三九六)大通院主聖易の発願によってその像に二人の霊を併せて祀ることになったという。「続風土記」には「境内周二町二十八間、本社三扉、方一間、長床、末社里神、村中にあり、応永三年の棟札ありしに紛失して、今慶長二年の棟札を蔵む」とある。


御霊神社
ごりようじんじや

[現在地名]小川町恩田

恩田おんだの東部権津ごんづ川右岸沿いに位置する。社殿は御霊森とも称された杉・樫・檜・欅などの茂るなかに建ち、社前左側に古池がある。御霊の宮として古くから知られ、御霊様とよばれている。祭神は那須与一宗隆(宗高、のち資隆)で、旧村社。御霊神社由緒(社蔵)などによると、文治五年(一一八九)宗隆は石清水いわしみず八幡宮報賽の帰途に急死、供人角田四郎資信は遺命を受けて舎利を奉じて帰郷、恩田の地に葬り、建久二年(一一九一)継嗣福原五郎之隆(那須資之)が廟を営んだという。「那須記」は創建当初の有様について「本宮社殿三間余にしてひわたふきなり、むねにハ金銀をちりはめ、大一大万の紋をうち付ル、前殿楼門雲にかかツテ、おびたゝしうそかゝやきける」と記し、「別当社僧ハ神前にて日夜四時の勤行隙もなく、御経読誦の声四方」に響いたという。


御霊神社
ごりようじんじや

[現在地名]吉備町庄

しようの北部、吉原よしはら洪積台地の北端にあり、広い社地を有する。祭神は吉備真備(吉備聖霊)・崇道天皇・伊予親王・藤原大夫人・藤大夫・橘大夫・文大夫・火雷ほのいかずち天神のほか、明治四一年(一九〇八)御霊村内の八社を合祀。旧村社。江戸時代には御霊八所宮といい、庄・徳田とくだ垣倉かいぐらおよび吉原(現金屋町)四ヵ村の産土神。縁起によれば寛治四年(一〇九〇)堀河天皇が八所霊をここに鎮座、神田を寄進、建武三年(一三三六)楠木正成が再興して田を寄進したが、文明年中(一四六九―八七)に兵火にかかり焼亡。


御霊神社
ごりようじんじや

[現在地名]土佐山村土佐山

平石ひらいしの字牛渡瀬うしわたせにある。旧郷社。崇徳上皇・伊予親王などを祀ると伝えるが、「高知県神社明細帳」「高知県神社誌」とも祭神未詳とする。前者によれば土佐山村(永谷村)など一二ヵ村の総鎮守、御霊大明神と称し、祭典の用度は古来皆土佐山郷大庄屋の作配下に社人一八人が奉仕し、祭礼の節の役配座列の次第にはことごとく古式があった。

創祀は不明だが、「古文叢」に大永八年(一五二八)の棟札が収められる。大檀那は本山左近将監。


御霊神社
ごりようじんじや

[現在地名]五條市中之町小字牧野

中之なかの町集落中央に鎮座。旧村社。嘉禎四年(一二三八)二月に霊安寺りようあんじ町の御霊神社から分祀したと伝え、井上内親王を祀る。弘和二年(一三八二)の石灯籠には「福田宮」と刻まれ、古くは福田ふくだ宮と称したが、「大和志」には「中村坐神祠」として「称曰御霊牧野荘八村共祭祀」と記す。国指定重要文化財の本殿は一間社春日造・檜皮葺で、文明四年(一四七二)の棟木銘があるが、以前は主屋根が柿葺、向拝が檜厚板葺であったことが解体修理で判明。


御霊神社
ごりようじんじや

[現在地名]三田市貴志

貴志きしの中央部南の山麓に鎮座。祭神は大比古命・大比売命・伊弉諾尊伊弉冉尊・鎌倉権五郎景政。旧村社。古くは貴志宮と称したという。社伝によれば、建武五年(一三三八)貴志義氏が戦勝を祈願して社殿を修造、荘厳を増し当地の総社となったという。現在の社殿は国指定重要文化財。本殿厨子銘(右扉裏墨書)によれば、文正元年(一四六六)地下百姓が談合して資金の調達を開始し、文明二年(一四七〇)一月二六日に再建事始、三月に柱立、四月に上棟、五月二八日に完成し遷宮している。


御霊神社
ごりようじんじや

[現在地名]五條市霊安寺町

丹生にう川東岸の高台に鎮座。旧宇智うち郡全域に祀られた御霊神社の本宮。井上内親王・早良親王・他戸親王を祀る。旧村社。平安後期の作と推定される御霊大明神坐像(女神像)を蔵する。長禄二年(一四五八)の「霊安寺御霊大明神略縁起」、天文三年(一五三四)の「御霊宮本紀」によれば、桓武天皇勅願により創祀、嘉禎四年(一二三八)閏二月に在地武士牧野氏・吉原氏の相論により宇智郡内一〇ヵ所に分祀、正長元年(一四二八)の土一揆に際し、畠山氏により焼払われた。


御霊神社
ごりようじんじや

[現在地名]葉山町長柄

長柄ながえのほぼ中央、森戸もりと川北岸の一段高い場所にある。祭神は大己貴命。「風土記稿」では鎌倉権五郎景政の霊を祀ると推定する。神体は木像。旧村社。由緒はつまびらかでなく、三浦為通、もしくは長江義景の勧進などと伝える。また大永三年(一五二三)仙波伊宗の再建ともいうが不明。


御霊神社
ごりようじんじや

[現在地名]藤沢市宮前

柏尾かしお川右岸の丘陵にある。祭神は早良親王・鎌倉権五郎景政・葛原親王・高見王・高望王。縁起によれば天慶三年(九四〇)平良文(村岡五郎)が当地に居住の折、京都より早良親王の霊を勧請したのが最初で、後に景政の霊を合祀して二座とし、さらにその後北条時頼の命により葛原親王・高見王・高望王を加え祀るという。


御霊神社
ごりようじんじや

[現在地名]鎌倉市梶原一丁目

市立深沢小学校裏に鎮座する。祭神は鎌倉権五郎景政。旧村社、梶原の氏神社。本殿・拝殿・祭器舎などからなる。例祭の九月一七日に湯立神楽を行う。勧請年月は未詳。「風土記稿」は梶原等覚とうがく寺持ちと伝える。かつては正保四年(一六四七)一二月八日と、年未詳の御霊神社縁起各二巻があった。


御霊神社
ごりようじんじや

[現在地名]八代市西宮町

西宮にしみや町の東にある。祭神吉備大臣外七神。旧村社。「国誌」は貞観五年(八六三)全国に御霊社三六社が建立されたときの一社と伝える。天正年中(一五七三―九二)小西行長によって破却されたが、京都御霊宮を氏神としていた細川三斎が八代に入城後、寛永二〇年(一六四三)、一説に正保元年(一六四四)再興され、社領三六石を寄付されたという。


御霊神社
ごりようじんじや

[現在地名]加茂町兎並

灯明寺とうみようじ山の北西麓に鎮座。祭神は崇道天皇。旧村社。創建・沿革ともに不詳であるが、古くは行基の開創と伝える灯明寺(現加茂町)の鎮守社であったという。現在は兎並うなみの産土神とされ、一〇月一七日の秋祭など十人衆による宮座で祭祀される。


御霊神社
ごりようじんじや

[現在地名]五條市小和町

小和おわ集落西方山中に鎮座。祭神井上内親王。旧村社。現五條市霊安寺りようあんじ町の御霊神社を勧請したもの。女神坐像二体を安置。一体は彩色・垂髪・玉眼・拱手で、平安末期の造像とする説や室町頃の模作とする説がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「御霊神社」の意味・わかりやすい解説

御霊神社
ごりょうじんじゃ

御霊とは非業(ひごう)の死を遂げた人の霊のこと。奈良時代末から平安時代にしばしば疫病が流行、それを御霊の祟(たた)りであるとしてその怨霊(おんりょう)を鎮めるために祀(まつ)ったのが御霊神社である。とくに有名なのは、京都の上御霊神社(御霊神社が正称。上京(かみぎょう)区上御霊堅町)、下御霊神社(中京区下御霊前町)の両社である。社伝によると、上御霊神社は794年(延暦13)崇道(すどう)天皇(早良(さわら)親王)の神霊を現社地に祀ったのを始めとし、のち仁明(にんみょう)・清和(せいわ)天皇の代に井上(いのえ)大皇后(光仁(こうにん)天皇皇后)、他戸(おさべ)親王、藤原大夫人(だいぶにん)(吉子)、橘大夫(きつだいぶ)(橘逸勢(たちばなのはやなり))、文大夫(ぶんだいぶ)(文室宮田麿(ふんやのみやたまろ))を合祀(ごうし)、さらにのち火雷(いかずち)天神(六所の荒魂)と吉備(きび)大臣(吉備真備(まきび))を併祭したと伝え、俗に八所(はっしょ)御霊と称する。下御霊神社は伊豫(いよ)親王を奉祀したのに始まると伝え、のちに崇道天皇、藤原大夫人、藤大夫(とうだいぶ)(藤原広嗣(ひろつぐ))、橘大夫、文大夫、火雷天神、吉備聖霊を八所御霊として奉祀。最初は京都の北郊出雲路(いずもじ)にあったが、1590年(天正18)現社地に鎮座した。両社は863年(貞観5)5月20日、神泉苑(しんせんえん)において悪疫退散のため御霊会(ごりょうえ)を勅修、その後は毎年8月18日に御霊祭が行われたが、現在はいずれも5月1日に神幸祭、同18日に還幸祭を行っている。

 なお、このほかにも同名の神社が各地にあり、鎌倉権五郎景政(かげまさ)らの御霊を祀る社もある。

[岡田荘司]

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世界大百科事典(旧版)内の御霊神社の言及

【御霊信仰】より

…さらにのちには吉備大臣(吉備真備(きびのまきび)),火雷神(火雷天神)が加わって〈八所御霊〉となり,京都の上御霊・下御霊の両社に祭神としてまつられるにいたった。この両社は全国各地に散在する御霊神社の中でもとくに名高く,京都御所の産土神(うぶすながみ)として重要視された。京都の祇園祭(ぎおんまつり)もその本質はあくまでも御霊信仰にあり,本来の名称は〈祇園御霊会〉(略して祇園会)であって,八坂神社(祇園社)の社伝では869年(貞観11)に天下に悪疫が流行したので人々は祭神の牛頭天王(ごずてんのう)のたたりとみてこれを恐れ,同年6月7日,全国の国数に応じた66本の鉾を立てて神祭を修め,同月14日には神輿を神泉苑に入れて御霊会を営んだのが起りであるという。…

【福知山[市]】より

…市域南東部の長田野(おさだの)は,明治30年代に軍隊の演習場とされ,以後も軍事利用されてきたが,昭和40年代から工業団地が造成され,金属,機械,電機などの工場が立地する。広小路の御霊(ごりよう)公園内には,宇賀御霊神に明智光秀を配祀した御霊神社がある。市域南東部の生野は,〈大江山いく野の道の遠ければ……〉と詠んだ小式部の歌名を高めた逸話で著名な歌枕。…

【鎌倉景政】より

…《奥州後三年記》によると,このとき景政は,鳥海弥三郎のために左目を射抜かれたが,ひるむことなく即座に答えの矢を射返してこれを倒したといい,また同僚の三浦為次がささった矢を抜くために景政の顔を足で踏もうとしたところ,武士の顔を土足にかける無礼をとがめ,これを謝らせたともいう。その出身地である鎌倉市坂の下に,彼をまつる御霊神社があり,〈権五郎さん〉の通称で親しまれているが,奥羽地方には,目を負傷した景政が戦場からの帰途に霊泉に浴してその矢傷を治したという,いわゆる〈片目清水〉の伝説を伝えるところが多く,また景政を神としてまつる風習が広くおこなわれている。柳田国男が説いた〈目一つ五郎〉の信仰で,〈五郎〉を〈御霊〉に付会したものだが,《吾妻鏡》によると,1185年(文治1)の夏から秋にかけて,鎌倉の御霊神社にしきりに神異があったことが記されており,その託宣が人々に崇められていたことが知られる。…

※「御霊神社」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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