日本歴史地名大系 「鎌倉村」の解説 鎌倉村かまくらむら 兵庫県:川辺郡猪名川町鎌倉村[現在地名]猪名川町鎌倉島(しま)村の東にあり、猪名川と支流鎌倉川との合流域にあたる。東は能勢(のせ)郡山田(やまだ)村(現大阪府能勢町)。中世は多田(ただ)庄のうちで、文明一八年(一四八六)の多田庄段銭結解状(多田神社文書)に「鎌倉谷」とみえ、新田方分三町三段(うち三段不作)に対して段銭一貫一五〇文を多田院(現川西市)に納めている。永正三年(一五〇六)にも同じく新田方分として課されているが、「納分新田六瀬ノ帳ニ一種ニ付」と記されている(「多田庄段銭結解状」同文書)。慶長国絵図に「鎌倉村」とみえ、高一二〇石余。元和三年(一六一七)の摂津一国御改帳では六瀬(むつせ)一〇ヵ村のうちとして「鎌倉」とある。 鎌倉村かまくらむら 富山県:婦負郡山田村鎌倉村[現在地名]山田村鎌倉湯(ゆ)村の南、山田川の両岸にわたって立地する。地名は川の深くなっている谷間という地勢に由来するのであろうが、鎌倉時代北条時頼が当地に滞在し、地形が鎌倉に似ていることから名付けたという伝承がある。正保郷帳に村名がみえ、高五三石余、田方三反余・畑方三町二反余。承応四年(一六五五)の村御印では草高八一石余(免四ツ六歩一厘)、うち不破頼母助二六石余および松村左太夫二〇石余の給人知のほかは蔵入であった(村々御印物等書上)。寛政二年(一七九〇)の高物成品々手鏡では古高八七石余・定免五ツ、新田高四石余・免一ツ、定小物成銀は山役銀六六匁余・蝋役銀二匁余・漆役銀一匁余。 鎌倉村かまくらむら 埼玉県:三郷市鎌倉村[現在地名]三郷市戸(と)ヶ崎(さき)・鷹野(たかの)・鎌倉寄巻(よまき)村の北、戸ヶ崎村の北東に位置し、北は長沼(ながぬま)村。田園簿では戸ヶ崎村の内に含まれ、延宝元年(一六七三)分村したという(風土記稿)。元禄郷帳には高付されていないが、長沼村の頭注に同村の内として村名がみえる。その後長沼村から分村したとみられ、天保郷帳では一村で高付され、高九三石余。元禄八年(一六九五)武蔵国幕府領総検地の一環として検地が実施され、明和三年(一七六六)新田検地が行われたと伝える(「風土記稿」など)。 鎌倉村かまくらむら 京都府:亀岡市鎌倉村[現在地名]亀岡市東別院(ひがしべついん)町鎌倉東は栢原(かいばら)、北は倉谷(くらだに)、西は湯谷(ゆや)の村々に接し、南は摂津国と境する桑田郡最南端の村。天保郷帳には高二二八・四〇六石「鎌倉村」とみえるが、天保一二年(一八四一)の「桑下漫録」では上下に分けて村高が記される。上鎌倉は八六石余、戸数二一、亀山藩領。下鎌倉は一三五石余、戸数三〇、亀山藩領。おそらく実際は各々独立村として認められていたのであろう。村の氏神鎌倉神社は、社伝によると永正一二年(一五一五)二月井上和泉守が宮座を二六人と定めて社殿を造営し、慶長一四年(一六〇九)亀山(かめやま)城主岡部長盛が神饌料を奉納、文化九年(一八一二)に二〇〇余段の石段を完成したという。 鎌倉村かまくらむら 福井県:大飯郡高浜町鎌倉村[現在地名]高浜町鎌倉山中(やまなか)村の西に位置し、青葉(あおば)山の西北中腹から麓にかけてを村域とする。南部を上鎌倉(かみかまくら)、北部を下鎌倉といい、「若狭郡県志」に「上鎌倉村属内浦、去小浜八里許也」とある。正保郷帳・天保郷帳では上下両村とも高付されているが、寛文六年(一六六六)の郷帳写(大野家文書)は一村として扱い、文化四年(一八〇七)の「雲浜鑑」も一村として戸数二七、人口一六九と記す。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by