蓮花寺(読み)れんげじ

日本歴史地名大系 「蓮花寺」の解説

蓮花寺
れんげじ

[現在地名]三田市下槻瀬

下槻瀬しもつきせの南境近くにある真言宗大覚寺派の寺院。深谷山と号し、本尊阿弥陀如来。寺伝によると法導が草創、往時は七堂伽藍と幾多の坊舎があって隆盛を極めた。とくに源満沖の帰依を受け発展したという。現加東かとうやしろ上鴨川かみかもがわ住吉神社蔵の大般若経巻二の奥書に、正中二年(一三二五)「摂州羽束郡槻瀬郷蓮花寺」とみえる。天正年間(一五七三―九二)荒木村重の兵乱で焼失豊臣秀頼寄進により慶長五年(一六〇〇)再建された。本尊の木造阿弥陀如来像の背面に文永八年(一二七一)二月日の墨書銘がある。この本尊は文安二年(一四四五)四月、有馬ありま郡守護赤松元家を頼って落延びてきた赤松満政を討つため山名軍が発向した際一時失われたが、同五年発見されて再び施入されたという(同五年五月四日「両界曼陀羅裏書」蓮花寺蔵)


蓮花寺
れんげじ

[現在地名]徳島市住吉一丁目

住吉島すみよしじま川北岸にある。大悲山と号し、真言宗大覚寺派。本尊は大日如来。寺伝によると寛永一〇年(一六三三)に水軍の船祈祷所として蜂須賀家政寺島てらしまに建立し、その後にてら町に移り、さらに住吉島に移転したという。あるいは阿州三好記大状前書(徴古雑抄)に、戦国期に勝瑞しようずい(現藍住町)にあった寺として記される蓮華寺(寺領一五貫文)とかかわりがあるとも考えられるが未詳。「阿波志」は蜂須賀家政によって寺島に建立され、寺町さらに福島ふくしまに移され大日寺と称していたが、のちに住吉島に移り寺号を改称したとする。


蓮花寺
れんげじ

[現在地名]茨木市天王二丁目

高野山真言宗で瑞光山と号し、本尊薬師如来。寺伝によると、行基が池中に夜々霊光の発するのを見て霊地であることを知り、伽藍を建立したのに始まるという。安永三年(一七七四)鐘銘によると応仁年中(一四六七―六九)の兵火で堂宇は焼失、寛永年間(一六二四―四四)祐照が再建をはかり、享保五年(一七二〇)弟子快慶の代に堂宇が整備され、寺宝に小野篁筆という大般若経六〇〇巻、尊有筆涅槃像があった。


蓮花寺
れんげじ

[現在地名]高岡市蓮花寺

蓮花寺集落中央に立地。寺域はもと墓地で戦国時代に移転したとされる。等覚山と号し、高野山真言宗。本尊十一面観音。越中観音霊場第一〇番札所(稿本越の下草)。寺伝によれば寛喜三年(一二三一)鎌倉等覚山大楽だいらく寺の勧行律師の創建。七堂伽藍を建立して等覚山蓮花寺と称した。正慶二年(一三三三)慶円が中興した(貞享二年寺社由緒書上)。本尊の木造十一面観世音菩薩立像は源頼朝のための供養像と伝え、鎌倉時代中期の作と推定される。


蓮花寺
れんがじ

[現在地名]岩井市下出島

下出島しもいずしま集落東端、菅生すがお沼を望む台地に所在。稲荷山花山院と号し真言宗智山派。本尊地蔵菩薩。「安産・子育の腹帯地蔵尊」として知られる。宝永三年(一七〇六)の村明細帳(長野監治文書)には「真言宗稲荷山蓮華寺、本寺神田山村延命院、観音堂・香取宮・稲荷宮・山王社・道祖神松・勢至松、右境内ニ有」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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