阿曇氏(読み)あずみうじ

改訂新版 世界大百科事典 「阿曇氏」の意味・わかりやすい解説

阿曇氏 (あずみうじ)

古代豪族安曇とも記す。海部あまべ)の伴造(とものみやつこ)として朝廷に奉仕した。その発祥地は筑前国糟屋郡阿曇郷(現,福岡市東部)と考えられている。《古事記》によれば,伊邪那岐(いざなき)神が筑紫の日向の阿波岐原(あはきはら)で禊をしたときに生成した三柱の綿津見神を祖神と仰ぎ,《新撰姓氏録》では海神綿積豊玉彦神の子穂高見命の子孫とされている。阿曇氏は早くより海人を支配しており,《日本書紀》に,応神天皇のとき,阿曇連(むらじ)の祖大浜宿禰(すくね)を遣わして諸所の海人の騒ぎを鎮めさせ,宿禰を〈海人之宰(海人の統率者)〉としたとあるのも,これまでの阿曇氏の立場が公認されたことを示すものであろう。履中天皇のとき,阿曇浜子住吉仲皇子(すみのえのなかつのみこ)の反に加担して黥刑(げいけい)に処されたので入墨を阿曇目と称したという。以後しばらく顕著な活動を見なかったが,推古朝以後再び活動し始め,とくに阿曇比羅夫は半島問題に関係し,後に天智朝初年の百済救援の役には大将軍として水軍を率いて参加した。その後阿曇氏は684年(天武13)宿禰の姓を賜り,律令制の成立以後は,永く海部の伴造として奉仕した経歴により内膳奉膳内膳司長官)に任ぜられることになったが,791年(延暦10)新嘗の日に,奉膳阿曇継成は神事行列の前後を同じ職掌高橋氏と争い,詔旨に従わず退出したため佐渡に流され,以後阿曇氏は内膳司での地位を失った。なお,海人族としての阿曇氏については,その種族的源流を東南アジアからインドネシア方面に求める説がある。
海人(あま)
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「阿曇氏」の意味・わかりやすい解説

阿曇氏
あずみうじ

海神綿津見命(わたつみのみこと)の後裔(こうえい)と称する神別氏族。安曇氏とも記す。本姓は連(むらじ)、684年(天武天皇13)宿禰(すくね)姓を賜う。阿曇は海神(アマツミ)のことで、海人(あま)の首長の意。各地の海人や阿曇部(べ)の民を率いて大和(やまと)朝廷に海産物を貢納し、また膳(かしわで)(高橋)氏と並んで天皇の御膳に奉仕した。律令(りつりょう)時代には高橋氏とともに内膳司の長官(奉膳(ぶぜん))を世襲したが、792年(延暦11)供奉(ぐぶ)の先後を争って桓武(かんむ)天皇の勅勘を被り、以後しだいに衰退した。

[黛 弘道]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「阿曇氏」の意味・わかりやすい解説

阿曇氏
あずみうじ

古代の海人 (あま) ,阿曇部を率いた豪族。『古事記』に,ウワツワタツミノカミの子孫とあり,朝廷に仕えて各地の海人を支配し,天皇の食事のことを司った。

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世界大百科事典(旧版)内の阿曇氏の言及

【高橋氏】より

…この点に関連して,高橋氏を膳氏の支流とする説と膳氏の本宗とする説との両説がある。高橋氏は律令制の成立後は,膳氏が大化前代以来天皇の供御に奉仕した実績を背景に内膳司の長官である奉膳(ぶぜん)(あるいは判官の典膳)に任ぜられるのを常としたが,同じく奉膳として奉仕する阿曇(あずみ)氏との間に対立を生じ,とくに神事の際の行列の前後についてしばしば争った。ちなみに内膳司の長官の奉膳の定員が2名と定められているのは高橋,阿曇両氏の伝統的立場を考慮した結果と思われるが,それが両氏の対立の原因ともなった。…

【内膳司】より

…飛鳥浄御原令以前から存在した膳職が,大宝令により官人等の食事をつかさどる大膳職(だいぜんしき)と,内膳司に分立した。異例の長官2人制は,令制以前から供御をつかさどった高橋氏(膳(かしわで)氏の一族)と阿曇(あずみ)氏(海人を統率した)が相並んで奉膳に任ぜられるようにはかられたものか。他氏の者が長官となる場合は〈正〉と称した。…

※「阿曇氏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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