日本大百科全書(ニッポニカ) 「隠岐の島」の意味・わかりやすい解説
隠岐の島(町)
おきのしま
島根県北部、隠岐郡にある町。2004年(平成16)隠岐郡西郷(さいごう)町と布施(ふせ)、五箇(ごか)、都万(つま)の3村が合併して成立。島根半島の北東方約45~80キロメートルの日本海に浮かぶ隠岐諸島のうち、最大の島、島後(どうご)を主たる町域とする。竹島も当町に属す。島南東部の西郷港は天然の良港で、本土の鳥取県境港および七類(しちるい)港(松江市)との間にフェリーと高速船が就航。国道485号が通じ、隠岐空港と出雲空港、大阪国際(伊丹(いたみ))空港を結ぶ定期便がある。島後はほぼ円形の火山島で、最高峰の大満寺(だいまんじ)山(608メートル)を中心に、500メートル内外の起伏に富んだ山々が連なり、町域の約80%を林野が占める。中央部の山地から放射状に流下する小河川の下流域に平地が開け、耕地となっている。隠岐白島(しらしま)海岸(国指定名勝及び天然記念物)、海苔田ノ鼻(国指定天然記念物及び名勝)、隠岐布施海岸(国指定名勝)、奇岩ローソク島など景勝地に富む海岸線と大満寺山一帯は大山(だいせん)隠岐国立公園域にある。
島北部の久見(くみ)は山陰地方で唯一の黒曜石の原産地。隠岐産の黒曜石は広く西日本各地の遺跡で発見され、日本海対岸のロシア沿海州や朝鮮半島の遺跡からも出土している。隠岐国は古代から遠流(おんる)の地で、小野篁(おののたかむら)や後醍醐天皇も当地に配流された。江戸時代中期以降、西廻航路に沖乗航法が採用されるようになり、西郷は北前船の風待港として利用され、廻船業の拠点としても発展。幕末維新期、島の神官や庄屋層に尊王攘夷思想が浸透し、彼らの指導下で島民が蜂起して松江藩郡代を追放、短期間ながら島民自治を実現している(隠岐騒動)。主な産業は観光業、水産業、農林畜産業など。水産業はイワシ、アジ、サバなどを対象とするまき網漁、イカ釣り、定置網漁のほか、ヒオウギ貝、イワガキ、ワカメなどの養殖も行われる。農業は水稲栽培、畜産は肉用牛の放牧・繁殖が主で、スギを中心とした林業も盛ん。中世来、隠岐国一宮といわれた水若酢(みずわかす)神社、同じく隠岐国惣社とされた玉若酢命神社(たまわかすのみことじんじゃ)があり、両社の本殿はいずれも国の重要文化財。また、樹齢2000年ともいわれる玉若酢命神社境内の八百杉(やおすぎ)は、若狭国の八百比丘尼が植えたとの伝承があり、国の天然記念物。隠岐国分寺境内は御醍醐天皇の行在所(あんざいしょ)跡とされ、国指定史跡。毎年4月、同寺で奉納される蓮華会舞(れんげえまい)は舞楽、延年の要素が残り、国指定重要無形民俗文化財。旧五箇村の郡(こおり)にある隠岐郷土館の建物は、明治時代の擬洋風木造建造物としての特徴をよく残している。1885年(明治18)に周吉穏地海士知夫(すきおちあまちぶ)郡役所庁舎として西町の旧松江藩陣屋跡地に建造され、その後、隠岐島庁庁舎、島根県隠岐支庁舎に転用された。1968年(昭和43)新合同庁舎完成により廃棄されることとなり、旧五箇村が現在地に解体・移築した。同館が保管する漁労・農耕・畜産・山樵にわたる民具(674点)は隠岐島後の生産用具の名称で国の重要有形民俗文化財。面積242.82平方キロメートル(竹島の面積を含む)、人口1万3433(2020)。
[編集部]