広島県福山市の港町。沼隈(ぬまくま)半島の先端に位置し,沿岸一帯は鞆ノ浦と呼ばれ,仙酔(せんすい)島や弁天島,朝鮮使節李邦彦にその眺望を〈日東第一形勝〉と賞された対潮楼,半島南西端,福山市の旧沼隈町側の阿伏兎(あぶと)岬にある阿伏兎観音(磐台寺)など,島と海との好景に恵まれている。瀬戸内海国立公園に含まれ,また鞆公園として国の名勝となっている。
瀬戸内海のほぼ中央に位置するため古くから潮待ち港となり,大宰帥大伴旅人や遣新羅使一行も寄港したことが《万葉集》に見え,奈良時代にすでに内海航路の拠点となっていたことが知られる。平安時代の終りになると平氏との結びつきをうかがわせるような伝承が数多く残っている。中世には単に内海の要港としてだけでなく,戦略上の要衝ともなっていたようである。承久の乱の際には鞆正友が上皇方として活躍し,乱後新補地頭が補任されている。また1336年(延元1・建武3)には京都の戦いに敗れて西走した足利尊氏が途中この地で光厳院の院宣を受け取り,東上入京に備えて譜代の武将を配置している。つづく42年(興国3・康永1)には南朝方の将金谷経氏が大可(おおが)島を急襲して北朝方の将森豊家と戦い,49年(正平4・貞和5)には足利直冬が中国探題に任命され,鞆が中国8ヵ国の政治の中心となった。さらに応仁・文明の乱では1471年(文明3)東軍の山名是豊がここに進駐,1544年(天文13)には小早川隆景が本陣を置いて尼子方の神辺(かんなべ)城(現福山市,旧神辺町)を攻撃している。一方経済的には,すでに鎌倉時代に宿屋や遊女屋が軒を連ね,地方の武士や庶民が集まって繁盛しており,室町時代にも1439年(永享11)から47年(文安4)までの史料に船持層の名前や,67年(応仁1)当時の日明貿易船の中に〈鞆宮丸〉の名が見え,尾道と並び称せられるほどに活況を呈していたようである。なお,これまで鞆では遺跡・遺物が確認されていなかったが,最近の発掘調査によって現市街地下に良好な状態で遺跡が存在していることが判明した。
執筆者:志田原 重人
鞆は元来,平・原両村に属していたが,1601年(慶長6)福島正則の検地をうけ,町方の鞆町と村方の後地(うしろじ)村とに分離した。石高は鞆町310石余,後地村153石余,1700年(元禄13)の幕府検地では鞆町208石余,後地村428石余に変更された。鞆町には,近世初頭,原町,鍛冶町,石井町,関町,道越町,西町,江浦(えのうら)町の7内町が成立しており,人口は1684年(貞享1)5818人,1697年7756人,1711年(正徳1)7204人,1816年(文化13)4794人と,元禄期にピークを示す。家持層はだいたい450軒を前後し停滞しているが,借屋層は元禄期に200,文化期に1000以上と増加している。
鞆には公式海駅がおかれ,幕府使臣をはじめ,諸大名,朝鮮通信使らの往来に備えて諸施設が整えられた。福島正則は中世の大可島城とは別に,3層の天守をもつ鞆城を築いて城番をおいたが1615年(元和1)の一国一城令で廃棄され,正則改易ののち福山に入部した水野勝成は鞆に長子勝俊を配した。39年(寛永16)鞆奉行を置いて,鞆在番衆や鞆目付を常駐させた。町行政は,各町の宿老・月行司・町代らによって運営され,町全体のことは各町宿老が月番で担当した。商業は,全国的商品流通の接点として中継的問屋商業を中心に営まれ,年貢米をはじめ,木綿,鉄,紙など諸藩専売品も対象になっている。また,錨・船釘・農具類をつくる鞆鍛冶や,薬種,保命酒,酒造業なども盛んであった。漁業も古くから行われ,西九州海域の捕鯨にも進出していた。また鞆周辺海域の桜鯛はよく知られ,現在も春の鯛網を中心に,訪れる観光客も多い。
執筆者:土井 作治
弓をひく人の左腕に結びつけて,矢を放った際に弦の衝撃を防ぐために用いる革製品。半月形の袋状に作り,内部に獣毛などをつめて弾性をあたえてある。その形を巴形と形容すれば,鞆絵(ともえ)すなわち巴という語源説につながる。古墳時代の遺品は材料の関係でのこっていないが,形象埴輪として鞆をかたどったものがあるほか,人物埴輪のなかにも,あるいは左腕に着装し,あるいは左腰に垂下した状態で,鞆の形をあらわしたものがある。正倉院にのこる8世紀の鞆は,鹿革製かとの推定説もあるが,鞣(なめし)をしない乾皮(ほしかわ)で作ったもので,牛革の〈手〉と鹿革の〈緒〉とを両端に縫いつけてある。738年(天平10)の〈駿河国正税帳〉には,鞆を馬革で作ったと記し,《延喜式》兵庫寮式には,鞆を熊革で作るとある。《万葉集》巻一の〈ますらをの鞆の音すなり……〉の歌は,鞆を作る人,使う人のほかに,その音を聞く人を文学の世界に登場させている。
執筆者:小林 行雄
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広島県東部、福山(ふくやま)市の一地区。旧鞆町。燧灘(ひうちなだ)に面した沼隈(ぬまくま)半島の南東部と仙酔(せんすい)島、走(はしり)島などを含む地域。地名は、神功(じんぐう)皇后が征韓の帰途、手に巻いていた鞆を沼名前(ぬなくま)神社に納めたことに由来するという。古くから瀬戸内海の港津として知られ、港が巴(ともえ)形をしていることから巴津(ともえつ)ともいった。大宰府(だざいふ)からの帰路鞆に寄港した万葉歌人大伴旅人(おおとものたびと)もこの地を詠んでいる。中世以降、軍事上の拠点として、また近世には諸大名や朝鮮通信使の利用が多かった。
瀬戸内海国立公園の一部で、仙酔島を中心とする鞆の浦一帯は鞆公園として国名勝に指定され、鞆の浦は重要伝統的建造物群保存地区、日本遺産にも指定されている。また5月の鯛(たい)網でも知られる。安国寺、沼名前神社、朝鮮使が宿泊した福禅寺対潮楼(たいちょうろう)(朝鮮通信使関係資料はユネスコ(国連教育科学文化機関)登録「世界の記憶」)などみるべきものも多い。江戸時代から酒造地としても知られ、保命酒の醸造元中村家を受け継いだ太田家住宅(1788年建造、国の重要文化財)など古い町家も残る。町の背後にはドライブウェーが通じており眺望がよい。
[北川建次]
矢を発射した際、弓弦の打撃から左腕内側を保護するために用いられた古代弓具の一種。発掘された埴輪(はにわ)武人像の左手首や腰にそれが装着されており、少なくとも5世紀ごろには用いられていた。鞆は獣皮製で漆塗りとし、中に獣毛、絹、綿などを詰め、大きさはこぶし大で、これを左手首内側に革紐(かわひも)で結び付ける。武用としては8世紀ごろまで使用され、弦が力強く鞆に当たる音が鞆音(ともね)として賞美された。その後儀礼用としては残ったが、14世紀中期ごろ以降は使用されなくなった。現存するものとしては正倉院宝物の鹿(しか)革製・墨漆塗りの鞆が有名である。
[入江康平]
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