デジタル大辞泉
「頼豪」の意味・読み・例文・類語
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らいごうライガウ【頼豪】
- 平安中期の天台宗の僧。伊賀守藤原有家の子。早くから近江の園城寺に入り、顕密二教を学ぶ。白河天皇の勅を受け皇子降誕を祈祷し敦文親王の出生をみ、恩賞として園城寺戒壇造立を請うたが叡山の異議により許されず、深くこれを恨み断食、遂に飢えて没す。この怨念は伝説化され「源平盛衰記」「平家物語」などに伝えられる。長保四~応徳元年(一〇〇二‐八四)
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
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頼豪
らいごう
(1004―1084)
平安後期の天台宗の僧。京都出身。藤原有家(ふじわらのありいえ)の子。園城寺(おんじょうじ)の心誉(しんよ)(971―1029)に就いて出家、1037年(長暦1)入壇伝法。祈祷(きとう)に効験をうたわれ、白河(しらかわ)天皇の皇子誕生を祈り効があった。1074年(承保1)天皇の勧めで、恩賞に園城寺戒壇建立を請うが、延暦(えんりゃく)寺の強い反対にあって聴許されず、頼豪は寺に籠(こも)り怨嗟(えんさ)し、天皇の慰諭にも応ぜず、断食して果てた。せっかく誕生の皇子も病死し、世に頼豪が数千の鼠(ねずみ)に化して延暦寺の聖教を食い尽くし、山徒が鼠祠(ほこら)をつくってこれをおさめたといい伝えられている。
[木内曉央 2017年10月19日]
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頼豪(1) らいごう
1004-1084 平安時代中期-後期の僧。
寛弘(かんこう)元年生まれ。天台宗。近江(おうみ)(滋賀県)園城(おんじょう)寺の心誉にまなぶ。白河天皇の皇子誕生を祈願し効験をあらわす。その賞として園城寺に戒壇院建立をねがうが延暦(えんりゃく)寺の反対でゆるされず,断食して応徳元年11月4日死去。81歳。死後,怨霊(おんりょう)が皇子に祟(たた)ったり,無数の鼠(ねずみ)となって延暦寺の経典をくいやぶったりしたという。
頼豪(2) らいごう
1282-1360 鎌倉-南北朝時代の僧。
弘安(こうあん)5年生まれ。真言宗。紀伊(きい)根来寺(ねごろじ)蓮華(れんげ)院(和歌山県)の実尊,中性院の頼瑜(らいゆ)にまなぶ。元徳2年(1330)実尊の死後,蓮華院をつぎ,大伝法院の学頭となった。延文5=正平(しょうへい)15年死去。79歳。字(あざな)は行心。著作に「大日経疏開雲鈔(だいにちきょうしょかいうんしょう)」「束草集」など。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
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頼豪
らいごう
[生]長保4(1002).京都
[没]応徳1(1084).大津
平安時代の天台宗僧。園城寺に学び,のちに実相房に住し,法験があるので有名となった。白河天皇の勅により皇子降誕を祈って効験があり,賞として園城寺内に戒壇を設けることを願ったが,延暦寺にはばかって勅許がおりず,ために断食して死んだ。俗説に彼の怨霊が数千のねずみとなって,延暦寺の経巻を食い破ったと伝えられる。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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