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中国の南宋時代の画家。生没年不詳。号は欽山。北宋末の画家馬賁(ばほん)の末裔で,馬遠の子,馬麟に至るまで5世代にわたり画院画家を輩出した名家の出身。寧宗朝(1195-1224),ことに恭聖仁烈皇后楊氏の庇護を受けて画院待詔として活躍した。馬賁以前の馬家が仏画師であった伝統を受けて道釈人物画を描き,李唐の画風を慕って山水画,山水人物画を得意とし,また花鳥画を描くなど,作画は広範囲にわたり,〈種種臻妙,院人中独歩也〉と評された。とくにその山水画は,対角線構図法を用いた独自のもので,〈辺角〉〈馬一角〉〈残山剰水〉などと評された。同時代の夏珪とともに,南宋院体画様式の完成者とされる。代表作は《禅宗祖師図》(東京国立博物館,天竜寺に分蔵),《西園雅集図巻》(ネルソン美術館),《十二水図》(北京故宮博物院)。また馬遠の伝称作品は,古くから日本に多数輸入され,夏珪,梁楷,牧谿,玉とともに,室町時代以降の日本の漢画に多大の影響を与えた。
執筆者:嶋田 英誠
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
生没年不詳。中国、南宋(なんそう)時代の画院画家。字(あざな)は欽山(きんざん)。河中(山西省永済県)の人。夏珪(かけい)とともに南宋後半期の院体山水画を代表する画家である。北宋末から子の馬麟(ばりん)に至るまで5世7人の画院画家を出した画壇の名門馬氏の出身で、光宗(在位1189~1194)、寧宗(在位1194~1224)両朝に仕えて画院の待詔(たいしょう)となった。山水図、山水人物図、花卉(かき)図に優れ、山水は李唐(りとう)画風を学び、大自然の一部分、「残山剰水(ざんざんじょうすい)」とよばれた景観描写を主とし、その景を画面対角線下に配し、上に余白をつくる対角線構図法によった。その構図法は「馬(ば)の一角(いっかく)」「辺角(へんかく)の景」などと評されたが、日本の室町山水画の成立に大きな影響を与えている。代表作に『清凉法眼(せいりょうほうげん)像』『雲門(うんもん)大師像』(ともに京都・天竜寺)、『洞山渡水(どうざんとすい)図』(東京国立博物館)、『西園雅集図巻』(カンザス・シティ、ネルソン美術館)、『十二水図巻』(北京(ペキン)・故宮博物院)などがある。
[星山晋也]
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生没年不詳
南宋の画家。河中(山西省運城県)の出身。特に山水画に優れ,夏珪(かけい)とともに,李唐(りとう)以後の南宋院体山水画の代表作家。「馬一角」のあだ名のごとく好んで山水の小部分を描き,厳整簡潔な筆致で形式的な美を表した。
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…江南山水画が再評価されるようになるのは北宋も後期以後,紙や墨などの素材のもつ滲みなどの効果に鋭い感受性を示した米芾(べいふつ)・米友仁父子によってであるが,華北山水画と江南山水画のこういった再対立・再総合の機運は十分熟さないまま,南宋と金とが中国を二分して形づくられる,山水画における南北の複雑な対立状況が出現する。北宋絵画の正統を受け継ぐと自負する金には王庭筠らの文人画家,南宋には四大家と称される李唐,劉松年,馬遠,夏珪ら,北宋画院の伝統を継承する画院画家が現れ,それぞれの絵画史の基調を作りあげた。この百数十年間は,政治的要因によって強いられた南北対立の時代であると同時に,対立する南北のそれぞれに絵画史的な意味での南北対立が見られる複雑な時代でもあった。…
…樹木は人物・山水・花鳥画の重要な構成要素であり,古来多くの画法が発明された。唐の韋偃(いえん)は竜をかたどった松,張璪は孤高におごる松,宋の李成・郭熙は君子を象徴すると同時に奇怪な寒林,米友仁は無根樹,馬遠は車輪蝴蝶の松,元の倪瓚(げいさん)はまばらな蕭散とした雑樹をかいた。また根,幹,枝,葉の各部も多様に分かれ,根は露根,枝は鹿角,蟹爪,葉は点葉,夾葉などの画法があった。…
※「馬遠」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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