出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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?~755
高句麗出身で唐に仕えた武将。騎射をよくし,開元年間(713~741年)の末に安西副都護,四鎮都知兵馬使となり西域の防衛にあたった。747年パミール方面の小勃律(しょうぼつりつ)を討伐して吐蕃(とばん)の勢力を撃退。安西都護,四鎮節度使にのぼり,750年石国(タシケント)を攻めて国王を捕えたが,翌年タラス河畔の戦いでアラブ軍に敗れ,唐は西トルキスタンを失った。755年安史の乱のとき殺された。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
中国、盛唐の武将。唐に降(くだ)った高句麗(こうくり)人の後裔(こうえい)で、父の代から唐の西辺で軍務に従った。開元(713~741)末年、安西(あんせい)副都護、四鎮(しちん)都知兵馬使となり、吐蕃(とばん)と対抗して747年、歩騎1万の兵を率いてパミールを越え、小勃律(しょうぼつりつ)(チベット西辺)に遠征し、その王を捕らえ凱旋(がいせん)した。これにより中央アジア以西の払菻(ふつりん)、大食(タージー)など70余国が唐に帰順し、大いに国威を輝かし、安西都護、四鎮節度使に栄進した。750年中央アジアの石国を討ち王を捕虜としたが、翌年、新興アッバース朝に援護されたソグディアナ諸国の連合軍とタラス河畔に会戦して大敗した。これにより中央アジアにおける唐勢力はイスラムに圧せられるようになった。安史の乱に際し守備の不手際を理由に処刑された。
[池田 温]
…この地に割拠していたトルコ系の2諸侯のあいだに戦争が起こり,一方はイスラムに他方は中国に援助を求めた。こうしてイスラムの軍隊と中国が争うようになったが,751年に高仙芝の率いる中国の軍隊はタラス河畔の戦争でイスラム軍に大敗し,多くの兵士が捕虜となった。この捕虜の中に各種の技術者がおり,のちにイスラムの技術に影響を与えたが,製紙術が伝わったのも捕虜となった中国人紙漉工に負うのである。…
…北西約90km,タラス川中流の州都ジャンブル付近に,かつてシル・ダリヤ方面とイリ盆地など東西を結ぶ交通要地で天山北部の東西交易地として栄えたオアシス都市タラスがあった。この町は,歴史上,中国,イスラム,遊牧民族などの諸勢力の交渉・衝突の場となったが,とくに751年,高仙芝の唐軍とアッバース朝のイスラム軍がこの付近で戦った〈タラス川の戦〉は有名である。この戦いは,安西都護高仙芝のタシケント攻撃に対して,ソグドなどのオアシス都市国家がアッバース朝の援助を求めて反撃したことが原因といわれるが,双方数万の兵による戦闘は唐軍の大敗に終わった。…
※「高仙芝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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