日本歴史地名大系 「高塚村」の解説
高塚村
たかつかむら
高塚村
たかつかむら
金津宿の北に隣接する農山村。「大乗院寺社雑事記」文明二年(一四七〇)七月一四日条に「河口庄郷々内村名」として
貞享三年(一六八六)福井藩領から幕府領となり、文政三年(一八二〇)再び福井藩領となる。正徳三年(一七一三)の坂井郡高塚村田畑屋敷反別改帳(佐藤家文書)によれば、一反当りの石盛は上田三石二斗・中田三石・下田二石八斗、上畑一石五斗・中畑一石四斗五升・下畑一石二斗九升・屋敷畑一石五斗で、とくに田地は面積に比べて非常に多く見積られ、当村の税率は村高の一割前後であった。
高塚村
たかつかむら
高塚村
たかつかむら
高塚村
たかつかむら
高塚村
たかつかむら
- 福岡県:八女市
- 高塚村
高塚村
たかつかむら
- 富山県:滑川市
- 高塚村
高塚村
たかつかむら
- 福井県:小浜市
- 高塚村
高塚村
たかつかむら
紀ノ川中流右岸にある。北東は
慶長検地高目録によれば村高五二七石余、小物成五斗五升七合。天保郷帳では村高六一六石余。岩出組に属し、文化四年(一八〇七)の岩出組指出帳(藤田家蔵)に「新田畑古荒起共」として面積九町八反余、石高八七石余があげられており、この頃までに開発が行われていたことが知られる。同指出帳によると新田畑古荒分を除いた本田畑は、田二九町四反余で高四三五石余、畑一町七反余で高二五石余。
高塚村
たかつかむら
高塚村
たかつかむら
高塚村
たかつかむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報