1893年の文官任用令と対になる1887年の文官試験規則において定められた〈文官高等試験〉の略称。これにより奏任官の任用資格は文官高等試験の合格者となり,それまでの帝国大学法科大学卒業生の無試験任用の特典は廃止された。この試験は毎年1回満20歳以上の男子を有資格者として東京で行われ,本試験は憲法など6種の法律必修科目と選択科目による筆記試験および口述試験であった。出題は,行政官と大学教授とから成る文官高等試験委員が担当した。合格者は各人の志望と大学および高文の成績に基づき,各官庁別に採用された。1918年高等試験令により,それまで別体系だった外交官・司法官の採用試験も一本化され,論文・外国語の予備試験と行政科・司法科・外交科の各科ごとの本試験を行うことになった。43年戦争激化により高文は停止され,46年に復活したものの47年限りで再度停止され,国家公務員試験に引きつがれた。高文の制度化により情実任用が排され学校体系と人材登用試験が結合した結果,貧家の秀才にも立身出世の機会が保障される社会移動の回路が形成された。そして明治末年には学閥官僚の優位が確立し,大正期には学歴社会が成立する。そのため一高-東大法学部-高文を頂点とする進学競争が激化する。その反面,画一的な尋常小学校の上に多様な学校が並列され,卒業者に相応の社会的地位が付与される高文以外の出世コースの並存が,戦後と異なる点であった。
執筆者:御厨 貴
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… 日本では,87年に〈文官試験試補及見習規則〉が公布され,翌年には奏任官には高等試験(高等文官試験。いわゆる高文),判任官には普通試験が実施されるようになった。これは主としてプロイセンの制度にならったものであり,一部のものを優遇する道を残していた。…
…1887年奏任官・判任官の採用が公開試験による資格任用制となって以後も,勅任官の知事は自由任用制であったが,学識と行政手腕の所有者が登用される傾向が強まり,志士官僚から学閥官僚への転換がすすんだ。 98年隈板内閣成立後,政党の猟官運動が顕著となり政党員が地方官となる兆しがあらわれると,政府は翌年勅任官にも文官高等試験(高文)を経た官歴者を昇任させるよう文官任用令を改正し,内務省が人事をにぎる排他的な官僚階層制を確保した。以後政党政治の発展につれて政友系,民政系と称される知事の政党化現象があらわれたが,官僚知事の枠を破るものではなかった。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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