コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

高橋泥舟 たかはし でいしゅう

9件 の用語解説(高橋泥舟の意味・用語解説を検索)

美術人名辞典の解説

高橋泥舟

幕末・明治の幕臣・槍術家。江戸生。槍術の大家山岡静山の弟。名は政晃、字は寛猛、通称を精一。高橋家を継ぎ、25才で講武所教授となる。浪士取扱となるが鳥羽・伏見の戦後は徳川慶喜の身辺を護衛する。山岡鉄舟は妹の夫。幕末三舟の一人。明治36年(1903)歿、69才。

出典|(株)思文閣
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

デジタル大辞泉の解説

たかはし‐でいしゅう〔‐デイシウ〕【高橋泥舟】

[1835~1903]江戸末期の幕臣。江戸の人。名は政晃。槍術家で講武所師範役。鳥羽伏見の戦い後、徳川慶喜(とくがわよしのぶ)に恭順説を説き、上野寛永寺で慶喜を護衛した。山岡鉄舟勝海舟とともに幕末の三舟と称された。

出典|小学館 この辞書の凡例を見る
監修:松村明
編集委員:池上秋彦、金田弘、杉崎一雄、鈴木丹士郎、中嶋尚、林巨樹、飛田良文
編集協力:曽根脩
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

百科事典マイペディアの解説

高橋泥舟【たかはしでいしゅう】

幕末維新期の槍術(そうじゅつ)家,幕臣。名は政晃(まさあき)。もと山岡氏,のち高橋家を継ぐ。講武所師範役・浪士(新徴組)取扱を務め,1868年徳川慶喜が大政奉還した後は身辺の護衛の任に当たった。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. ご提供する『百科事典マイペディア』は2010年5月に編集・制作したものです

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

高橋泥舟 たかはし-でいしゅう

1835-1903 幕末-明治時代の武士,槍術(そうじゅつ)家。
天保(てんぽう)6年2月17日生まれ。兄の山岡静山について修業し,幕府講武所槍術師範となる。慶応2年遊撃隊頭取。鳥羽・伏見の戦い後,謹慎中の徳川慶喜(よしのぶ)を警護した。維新後は東京に隠棲(いんせい)。勝海舟,義弟の山岡鉄舟とともに幕末三舟と称された。明治36年2月13日死去。69歳。江戸出身。本姓は山岡。名は政晃。字(あざな)は寛猛。通称は謙三郎,精一。

出典|講談社 この辞書の凡例を見る
(C)Kodansha 2015.
書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

朝日日本歴史人物事典の解説

高橋泥舟

没年:明治36.2.13(1903)
生年:天保6.2.17(1835.3.15)
幕末の幕臣。名は政晃,通称精一。泥舟は号。旗本山岡正業の次男で母方高橋家を継ぐ。槍術家山岡静山の実弟,山岡鉄舟は妹婿。槍術に長じ,安政6(1859)年講武所師範役となり,伊勢守に任ぜられた。文久2(1862)年,幕府徴募の浪士組を率い取扱として上京したが,浪士のうちに尊攘を唱える者が数を増し,新選組のみを残して江戸に戻った。明治1(1868)年遊撃隊頭として徳川慶喜の護衛に当たる。鳥羽・伏見の戦後は恭順を説き,新政府軍への使者に山岡鉄舟を推薦。維新後は仕官せず東京に隠棲。勝海舟,山岡鉄舟と共に幕末三舟と称される。<著作>『泥舟遺稿』(安部正人編)<参考文献>『高橋泥舟翁事歴』

(三井美恵子)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

世界大百科事典 第2版の解説

たかはしでいしゅう【高橋泥舟】

1835‐1903(天保6‐明治36)
幕末・維新期の槍術家。名は政晃,字は寛猛,通称は精一。旗本山岡正業の次男。22歳で講武所の教授に出仕,25歳で師範となり,従五位下伊勢守に任官する。1863年(文久3)将軍徳川家茂の上洛に従い,新徴組の取扱をも命ぜられた。将軍慶喜が伏見で敗戦したのちは,官軍への恭順を説いた。泥舟は号で,勝海舟,山岡鉄舟とともに〈幕末の三舟〉とよばれた。【吉原 健一郎】

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. 収録データは1998年10月に編集製作されたものです。それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。また、本文中の図・表・イラストはご提供しておりません。

大辞林 第三版の解説

たかはしでいしゅう【高橋泥舟】

1835~1903) 幕末の幕臣。名は政晃。槍術に優れる。講武所教授。鳥羽伏見の戦い後は恭順謹慎を唱え、徳川慶喜の身辺警固にあたった。勝海舟・山岡鉄舟とともに幕末三舟といわれる。

出典|三省堂
(C) Sanseido Co.,Ltd. 編者:松村明 編 発行者:株式会社 三省堂 ※ 書籍版『大辞林第三版』の図表・付録は収録させておりません。 ※ それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

高橋泥舟
たかはしでいしゅう

[生]天保6(1835).江戸
[没]1903.2.13.
江戸時代末期の幕臣で槍術家。山岡正業の次男。通称,精一。高橋家の養嗣子となった。文久2 (1862) 年講武所師範役,翌年新徴組を統率,のち遊撃,精鋭両隊を統率し,恭順派に加わって徳川慶喜を護衛した。

本文は出典元の記述の一部を掲載しています。

出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
Copyright (c) 2014 Britannica Japan Co., Ltd. All rights reserved.
それぞれの記述は執筆時点でのもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

高橋泥舟
たかはしでいしゅう
(1835―1903)

幕末期の幕臣。天保(てんぽう)6年2月17日生まれ。名は政晃、泥舟は号。山岡氏より高橋家の養子となる。山岡鉄舟(てっしゅう)は義弟(妹英子の夫)。1855年(安政2)槍術(そうじゅつ)家の兄山岡静山の没後、その門人を教授し、槍術の名人と称された。翌年22歳で講武所の教授となり、59年従(じゅ)五位下伊勢守(いせのかみ)に叙任。63年(文久3)新徴(しんちょう)組の統率、浪士取扱を命ぜられたが、尊攘(そんじょう)派志士と接触があるとの理由で免職となる。長州征伐のときには征長不可の旨を上書、慶応(けいおう)幕政改革にあたり、66年(慶応2)11月遊撃隊頭取、翌年10月同隊頭取並となる。鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)の戦い後は一貫して徳川慶喜(よしのぶ)の恭順謹慎を主張し、68年2月慶喜が江戸城を出、上野寛永寺(かんえいじ)に入ったあと身辺の護衛にあたった。勝海舟(かつかいしゅう)、山岡鉄舟とともに幕末三舟と称せられる。明治36年2月13日没。[佐々木克]

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) この辞書の凡例を見る
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの解説は執筆時点のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

高橋泥舟の関連キーワード堀利堅伊佐岑満林其山太田雪岳広田執中溝口勝如福島栄春柳東小堀宗中山岡静山

今日のキーワード

大寒

二十四節気の一つ。元来,太陰太陽暦の 12月中 (12月後半) のことで,太陽の黄経が 300°に達した日 (太陽暦の1月 20日か 21日) から立春 (2月4日か5日) の前日までの約 15日間で...

続きを読む

コトバンク for iPhone

高橋泥舟の関連情報