高橋郷(読み)たかはしごう

日本歴史地名大系 「高橋郷」の解説

高橋郷
たかはしごう

阿多あた郡内にあった中世の郷。現在の万之瀬まのせ川河口部、北岸の金峰町高橋、南岸の加世田市高橋付近比定される。薩摩国建久図田帳に阿多郡の没官領内として「高橋五十(没官領地) 同地佐女島四郎(鮫島宗家)」とみえ、阿多忠景の娘婿平(阿多)宣澄の遺領とみられる。江戸時代の金峰山由来記(三国名勝図会)によれば、推古天皇二年金峰山に大和吉野よしの(現奈良県吉野町金峯山寺)金剛蔵王を勧請する際に勅使として赴いた従三位兼大宰大弐蔵人頭高橋卿は「阿多郡高江崎」に住みつき、大隅・薩摩両国二島を領知し、のち高江崎を高崎と改めたという。江戸時代には「高橋殿の御代ならば、金子の枡で米を計ると也、其の国政の豊功知るべし」(原漢文)という俗謡があったとする。そのほか前掲由来記には、往古この地は入海であったが、金峰山の宮田として数千町を開発したとある。この伝承に登場する高橋殿を保延四年(一一三八)一一月一五日に私領阿多郡内牟田上浦むたかみうらを金峰山別当寺の観音寺に寄進している阿多郡郡司平忠景にあて(「平忠景寄進状案」二階堂文書)、当地の開発も同人によるものとの説がある。


高橋郷
たかはしごう

和名抄」所載の郷。同書東急本に「多加波之」の訓がある。郷域は出石川の支流河本こうもと川・佐々木ささき川の流域を主とし、出石郡の南東部、現但東たんとう町の南部、河本・西谷にしだに小谷おだに・佐々木・正法寺しようぼうじ平田ひらた久畑くばたなどの諸地域。


高橋郷
たかはしごう

「和名抄」高山寺本・流布本ともに「高橋」と記し、流布本に「多加波之」と訓ずる。蒼社そうじや川左岸一帯の平地と野間のま郡境となる丘陵に比定される。現今治いまばり市の高橋・別名べつみよう小泉こいずみ片山かたやまなどの地域で、平地からは県下弥生中期の標準形式である中寺式土器を出し、丘陵上には片山古墳群がみられる。南端伊与熊いよくまの丘には式内社大須伎おおすぎ神社があるが、旧社地は蒼社川河畔にあった。


高橋郷
たかはしごう

鎌倉期よりみえる郷名で、現在の南高橋町とその付近一帯に比定される。仁治二年(一二四一)一月二〇日の東大寺別当定親吉書日記(薬師院文書)大井おおい庄三所の一つとして「高橋定命律師」とみえる。貞治三年(一三六四)二月一一日の法華会料結解状(東大寺図書館蔵)に文和三年(一三五四)の夫賃三〇〇文について、「榎戸高橋夫丸無沙汰之間、楽田三ケ郷下行」と記される。


高橋郷
たかはしごう

「和名抄」諸本ともに訓を欠く。「日本地理志料」では沼田ぬまた小泉こいずみ関場せきば村田むらた菅生すごう(現村田町)などにわたる地とする。


高橋郷
たかはしごう

「和名抄」東急本に「多加波之」と訓ずる。郷域は、「大日本史」国郡志には「今有矢並村、称旁近二十余村曰高橋荘」として中世の高橋庄域をあてる。「大日本地名辞書」は「今広瀬・平井・矢並の辺なるべし」とし、高橋庄域はさらに広いために、豊田市の東北に限定している。


高橋郷
たかはしごう

「和名抄」諸本にみえる郷名。東急本に「多加波之」の訓がある。「遠江国風土記伝」が高橋村(現小笠町高橋)に比定し、「大日本地名辞書」なども同じ。


高橋郷
たかはしごう

「和名抄」にみえるが訓を欠く。「下総旧事考」は「今下野国都賀郡ニアル。高橋村是ナルベシ」として高橋村(現栃木県小山市)に比定。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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