高橋村(読み)たかはしむら

日本歴史地名大系 「高橋村」の解説

高橋村
たかはしむら

[現在地名]清水市高橋一―六丁目・高橋町・高橋南町たかはしみなみちよう弥生町やよいちよう天王町てんのうちよう天王東てんのうひがし天王西てんのうにし天王南てんのうみなみ八坂南町やさかみなみちよう八坂西町やさかにしちよう八坂北やさかきた一―二丁目・下野北しものきた渋川しぶかわ一丁目・永楽町えいらくちよう

下野村の南東にある。ともえ川の左岸、山原やんばら川が巴川へ合流する辺りを占め、東は西窪にしくぼ村・西窪新田、東は高橋新田。中世には東海道が通り、同街道の宿駅として賑わった。

〔中世〕

中世東海道の高橋宿は西の瀬名川せながわ(現静岡市)へ二里、東の興津おきつへ一里の間に位置した(実暁記)。「玉葉」治承四年(一一八〇)一一月五日条に「高橋宿」とあり、平維盛・忠度を大将とする源頼朝追討軍が一〇月一六日当宿に着陣している。なお「曾我物語」巻一の「伊東二郎と祐経が争論の事」によれば、仁安二年(一一六七)の頃工藤祐経が京都からの帰途、高橋の地で母方の縁者である吉川・船越・興津・蒲原・入江の諸氏と、所領相論の相手である叔父伊東祐親殺害の謀議を凝らしたという。正治二年(一二〇〇)鎌倉を追放された梶原景時一族が上洛の途次、当地において駿河武士によって討取られた(「玉葉」同月二九日条)


高橋村
たかはしむら

[現在地名]小山市高椅たかはし

鬼怒川西岸の沖積地にあり、川・吉田よしだ用水が西寄りに南流する。日光東街道沿いにあり、東は下福良しもふくら村、南は福良村・やな村。高椅村とも書く。「和名抄」下総国結城郡高橋郷の遺称地。康正三年(一四五七)一二月二九日「下総国結城郡上高橋郷」は結城政朝によって禅智(結城基光)菩提所として安穏あんのん(現茨城県結城市)に寄進された(「結城成朝寄進状」安穏寺文書)。また年未詳七月二一日の結城政勝書状(同文書)では、安穏寺に対し高橋郷の百姓たちが干害・水害を理由として年貢減免を要求した際には、田地を没収して直接支配を行い年貢を徴収するようにとの指示を出している。郷内には古社の高椅神社(高椅明神)があり、結城氏から深く崇敬されていた。享禄四年(一五三一)九月九日には結城政直(政勝)によって高橋・両福良村のうち三六〇貫文の地が同社に安堵された(「某安堵状」高椅神社文書)。天正一三年(一五八五)五月七日には結城晴朝と推定される人物が、高橋郷・につかわ(字新川)をはじめ近隣の七郷に対し造営のための勧進を許可し(「某朱印状」同文書)、年未詳九月二七日の某黒印状(同文書)でも結城晴朝と推定される人物が高橋・延島のぶしま・福良の三郷に対し同様のことを定めている。


高橋村
たかはしむら

[現在地名]鹿本町高橋

村東を内田うちだ川が南流し、西は上御宇田かみみうた村、北は津袋つぶくろ村、南は玉名たまな小島おしま村と接する。年未詳の肥後国山北西安寺石堂碑文(相良家文書)に相良宗頼領地として「百丁高橋村」があり、元久二年(一二〇五)相良長頼人吉ひとよし庄地頭職を得たのち、長頼の弟宗頼が山鹿やまが郡内や玉名郡内で所領を得ている。宗頼の死後、「高橋内作田三町」などが長頼の娘に譲られたが、その後長頼が自身の所領としたために宗頼の子頼重と相論になり、寛元元年(一二四三)一二月二三日の関東下知状(同文書)で娘を養育した頼重の母が領することとされた。弘長三年(一二六三)六月二九日の少弐武藤資能請文(石清水文書)には山城石清水いわしみず八幡宮寺領高橋庄とあり、名主の相良公頼・頼泰・頼重が年貢を抑留するなどの非法を行ってきたために預所の好秋が訴え、幕府から下地中分を令されている。天文一二年(一五四三)一〇月の五条鑑量本地坪付(五条家文書)に「高橋一所 十四町」「同村内南分一所 六町」があり、年未詳の五条氏領の坪付(同文書)にも同様に記される。


高橋村
たかはしむら

[現在地名]佐野市高橋町

渡良瀬川の北岸に位置し、北西をはた川が流れる。北は村上むらかみ村。足利郡に属し、渡良瀬川沿いに高橋河岸がある。仁治二年(一二四一)二月日の足利義氏下文(鑁阿寺文書)に足利庄内高橋郷の名がみえる。義氏は同郷ほか三郷の鑁阿ばんな(現足利市)忌日用途の対捍を停止するよう公文所に命じており、この頃までに同郷は足利氏から鑁阿寺へ寄進されていたと考えられる。永享一二年(一四四〇)に起こった結城合戦では、同年三月結城方の新田氏・佐野氏らが「高橋郷野田の要害」で上州攻撃の評定を行ったが、四月九日には「高橋の城」が上州一揆に包囲されたという(鎌倉大草紙)。この城は現在渡良瀬川の河川敷となっている高橋城跡と考えられる。文明一五年(一四八三)二月日の鑁阿寺仏寺銭請取注文案(鑁阿寺文書)では「野田大尼御前御迎膳」三貫一三三文を高橋郷が納めるとあるが不知行で、この時期には鑁阿寺の支配が及ばなくなっていたのであろう。


高橋村
たかはしむら

[現在地名]小笠町高橋

河東かとう村の西、牛淵うしぶち川と丹野たんの川の合流点の南東に位置し、高橋川が西流、村の北部を東西に秋葉街道(信州街道)が通る。古代の城飼きこう郡高橋郷(和名抄)の遺称地。横地・勝間田両氏を制圧するため遠江に在陣した今川義忠は、文明八年(一四七六)二月駿河への帰途に討たれるが、その場所を「今川記」「今川家略記」「今川家譜」は「塩貝坂」「塩見坂」と記し、当地塩買しおかい坂に比定される。義忠の子氏親はのち当地に昌桂しようけい(のち昌林寺さらに正林寺と改称)を建て、菩提を弔った。正林しようりん寺に伝わる天文一四年(一五四五)正月二六日の今川義元判物に「性海坂」とみえるが、これは昌桂寺をさしている。


高橋村
たかはしむら

[現在地名]武雄市朝日町あさひまち甘久あまぐ字高橋

現朝日町の東南部に位置し、新堀江しんほりえ六角ろつかく川に武雄川が流入する地点から高橋に至る江湖)に沿った街村。

建治三年(一二七七)一二月二〇日付の地頭・領家田地屋敷注文案(橘中村家文書)に「たかはしのこその」とあり、同じ橘中村家文書の元徳三年(一三三一)二月四日付孫王契約状には「ひせんのくになかしまのしやうたかハしのむらのうちやしき本銭返として渋江氏より買得す」とある。慶長絵図に「高橋町」とある。中世頃から武雄地方の内陸部における水陸交通の拠点であった。

この地域は平安時代は長島ながしま庄で蓮華王れんげおう院領。


高橋村
たかはしむら

[現在地名]金峰町高橋、加世田市高橋

尾下おくだり村の南西に位置する。万之瀬まのせ川は享和二年(一八〇二)頃までは河口付近の流路が現在より南の加世田市高橋と同市小湊こみなとの間を流れていたため、加世田市高橋地域も万之瀬川北西部一帯として高橋村に含まれていたという(加世田名勝志)。中世には一帯を高橋郷といい、近世には田布施たぶせ郷に属した。寛文四年(一六六四)の郡村高辻帳によれば高一千三一七石余。


高橋村
たかはしむら

[現在地名]今治市高橋

今治平野南西部、蒼社そうじや川北岸の大村。ほぼ正方形で、東半分は平坦地で別名べつみよう村に接する。北は矢田やた村に、西は法界寺ほうかいじ(現越智郡玉川町)に接し、蒼社川の対岸は別所べつしよ村・小鴨部こかんべ(現玉川町)である。

「和名抄」にある越智おち郡高橋郷にあたり、弥生前期の遺跡があり、山稜には多くの古墳が分布する。鎌倉期の「八宗綱要」の著作で名高い凝念国師出生の地である。山麓には古社寺が並び、多々羅・氷室・名・貴殿・土居・立丁・一ノ坪・八丁・万福寺・仏師・仁王堂・興禅寺・春日寺などの小字がある。


高橋村
たかはしむら

[現在地名]熊本市上高橋かみたかはし

高橋山(二七一メートル)の東および東南斜面から、井芹いせり川・坪井つぼい川北岸に広がる。北と東は池上いけのうえ村、南は高橋町・上代かみだい村に接する。天文一二年(一五四三)一〇月一六日の五条鑑量本地坪付(五条家文書)に「高橋一所 十四町」とある。

慶長一三年(一六〇八)の検地帳では田方二一町三反余・畠方一九町余、分米三九七石二斗余とあり、家数一五六、男九七・女八四・せがれ二一・うば一・坊主一、牛八・馬一九、蜜柑八で、このほか屋敷一反三畝・八斗八合をもつ正徳寺をあげる。


高橋村
たかはしむら

[現在地名]中山町高橋

下市しもいち川中流、退休寺たいきゆうじ村の南西に位置する山村。汗入あせり郡に属し、拝領高二七八石余、本免五ツ五歩。加須屋氏の給地があり(給人所付帳)、同氏の年貢納入先は御来屋みくりや(現名和町)富長とみなが(現同上)で、宝暦(一七五一―六四)以降「在方諸事控」に関連記事が散見される。幕末の六郡郷村生高竈付では生高三二九石余、竈数三一。藪役銀三匁五分を課されていた(藩史)。当地の妙高みようこう(小堂が現存)は汗入札第二五番札所。高橋神社が鎮座。


高橋村
たかはしむら

[現在地名]三朝町高橋

吉田よしだ村の南、小鹿おしか川上流寄り右岸に位置する。拝領高一六六石余。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「伯耆誌」によれば高一九〇石余、竈数二三。宝暦三年(一七五三)頃の河村郡村々明細帳(近藤家文書)では朱高一八一石余、高一九二石余、うち畑高八石余。免五ツ九分、橋津はしづ御蔵(現羽合町)納。悪田加損米六石。川役銀一八匁が課され、棟数五軒・役高一〇〇人。


高橋村
たかはしむら

[現在地名]福地村高橋

八戸はちのへ城下(現八戸市)の南西、馬淵まべち川の中流左岸の河岸段丘に位置する。東は小泉こいずみ村、西は苫米地とまべち村、北は麦沢むぎさわ村、南は川を隔てて埖渡ごみわたり村に接する。天正(一五七三―九二)の頃高橋館に高橋駿河が居館した。高橋氏は岩手工藤氏の分れといわれ、建武年間(一三三四―三八)南部氏の家臣として当地を知行し、高橋と姓を改めたと伝える(「奥南諸家覚書綴」郷土の展描)。その後南部信直に仕え、櫛引氏に備えたともいう。

藩政当初は盛岡藩に属したが、寛文四年(一六六四)八戸藩の創設とともに同藩領に編入された。


高橋村
たかはしむら

[現在地名]大木町高橋

大藪おおやぶ村の東に位置し、東は下妻しもつま中牟田なかむた(現筑後市)、南は山門やまと吉開よしがい(現三橋町)。文禄四年(一五九五)の知行方目録に「たかはし村」とみえ、高二一七石余。本高は四六一石余(元禄国絵図)。「在方諸覚書」によると古高八〇〇石・役高五二一石。享和二年(一八〇二)の春免高帳では高五二一石。文化四年(一八〇七)の畝付帳では本田二九町五反余・開田二反余・居屋敷四反余。旧高旧領取調帳の高八五一石余。


高橋村
たかはしむら

[現在地名]岩室村高橋

東を飛落とびち川が北へ流れ、北西は下和納しもわのう(現巻町)、南西は上和納村。元和四年(一六一八)の長岡藩知行目録に村名がみえ高三四六石九斗余。寛永一一年(一六三四)旗本牧野氏に分知され、文久三年(一八六三)の高直し以降三根山藩領。割地制度がとられ、延宝五年(一六七七)の地割帳(「三根山藩」所収)によれば田畑三七町七反九畝余で、軒前は二三軒、うち一軒は庄屋持で残りが二〇人の百姓により耕作されていた。一軒前の面積は一町六反四畝余であった。耕地の割替は八―九年ごとに行われたらしい。宝暦八年(一七五八)の家数二八(うち本百姓二四)・人数一八五(和納村人別目録控「三根山藩」所収)


高橋村
たかはしむら

[現在地名]尾花沢市高橋

押切おしきり村の北東、丹生にゆう川支流赤井あかい川左岸に位置し、山刀伐なたぎり峠に至る街道に沿って発達した。北西は矢越やごし村。元和八年(一六二二)山形藩領、寛永一三年(一六三六)幕府領となり、安政二年(一八五五)より松前藩預地。正保郷帳では田方三六三石余・畑方二七石余。宝暦一一年(一七六一)の御巡見様御案内覚帳(二藤部文書)によれば高三八九石余、家数三二・人数一八三。

天明七年(一七八七)の村明細帳写(柳橋文書)によると家数四二・人数二一三、馬一三。


高橋村
たかはしむら

[現在地名]福崎町高橋

神西じんさい郡に属し、東はいち川を挟んで神東じんとう長目ながめ村。生野いくの街道が通る。神東郡宮脇みやわき(現姫路市)正八幡神社の天正一九年(一五九一)九月一日の祭礼奉納神事相極次第(正八幡神社文書)に高橋村とみえる。正保郷帳では田方八八石余・畑方二三石余、「旱損所・芝山有・新田有」と注記される。


高橋村
たかはしむら

[現在地名]朝日町高橋

北は金山かなやま村・大家庄おいのしよう村、東は横水よこみず村、西は下山新にざやましん村、南は下野しもの村・野新のしん村で、村の中をふな川が流れる。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高一八一石、免三ツ五歩(三箇国高物成帳)。天明五年(一七八五)・文化一四年(一八一七)に手上高があり、天保一一年(一八四〇)の草高一八四石(「高免帳」杉木家文書)


高橋村
たかはしむら

[現在地名]多賀城市高橋・高橋一―三丁目など

市の西部に位置し、沖積地に立地。北は山王さんのう村、東は八幡やわた村、南は中野なかの(現仙台市)、西は新田にいだ村。村名の由来は、旧七北田ななきた川に高い橋が架けてあったからとか、多賀城に通じる多賀の橋が転訛したとかいわれている。現在、七北田川は西端を流れているが、地区内の川に関係すると思われる小字名の分布からみると、古く七北田川は新田から北東に流れていたものと考えられる(多賀城町誌)


高橋村
たかはしむら

[現在地名]櫛引町常盤木ときわぎ

湯殿ゆどの村の東にあり、北流する青竜寺しようりゆうじ川東方を同じく北流するうち川に挟まれた地域にあたる。元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録では高一三六石余。寛永元年庄内高辻帳では高一四三石余。慶応三年(一八六七)の検地帳写(山添村史)では田方一〇町二反余・畑方九反余・居屋敷一反余で、田は中田、畑は下畑が最も多い。


高橋村
たかはしむら

[現在地名]永平寺町高橋

九頭竜くずりゆう川の南岸に位置し、北の対岸は鳴鹿山鹿なるかさんか村、東は谷口たにぐち村、西は東古市ひがしふるいち村、村内を勝山街道が通る。慶長六年(一六〇一)九月九日付山川菊松宛の結城秀康知行宛行状(山川家文書)に「志比領 高橋村」とみえる。同一一年頃の越前国絵図では志比下しひしも之庄内に含まれていたと思われる。


高橋村
たかはしむら

[現在地名]網野町字高橋

下岡しもおか村の南に位置し、西に山地を負い、東方には福田ふくだ川沿いの田圃が開けている。

慶長検地郷村帳に高二八一・〇三石「高橋村」とみえる。延宝九年(一六八一)の延高で四〇八石余となった(天和元年宮津領村高帳)。宮津藩領であったが、寛文六年(一六六六)幕府領、同九年宮津藩領、延宝八年幕府領、同九年宮津藩領、享保二年(一七一七)幕府領、宝暦一三年(一七六三)但馬出石藩領、天保六年(一八三五)幕府領と変遷。


高橋村
たかはしむら

[現在地名]長浜市高橋町

下坂浜しもさかはま村の南にあり、西方は琵琶湖に臨む。慶長石高帳では高五六六石余とあったが、元禄四年(一六九一)寺田てらだ村との境界を訂正して、六二石余を減らしたという(六荘村誌)。寛永石高帳に高五〇四石余とあり、彦根藩領。文久二年(一八六二)上知され彦根藩預となる。寛文四年(一六六四)の彦根領分高帳(間塚文書)によれば定免で五ツ八分。


高橋村
たかはしむら

[現在地名]八尾町高橋

高熊たかくま村の西、室牧むろまき川左岸にある。正保郷帳に村名がみえるが、村高などは栗須くりす村と合せて記される。元禄一一年(一六九八)郷村高辻帳では高熊村の五町ほど西にある枝村新田としてみえ、高二三石。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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