高鍋城跡(読み)たかなべじようあと

日本歴史地名大系 「高鍋城跡」の解説

高鍋城跡
たかなべじようあと

[現在地名]高鍋町南高鍋・上江

小丸おまる川と宮田みやだ川に挟まれた洪積台地(茶臼原台地)東端に位置し、東方に城下を見下ろす。中世から近世前期までは財部たからべ城と記されることが多く、寛文九年(一六六九)に高鍋城と改められたという。舞鶴まいづる城ともいわれ、城郭白壁が緑に映える美しい景観から通称されたのであろう。現在は舞鶴公園として整備されている。

〔財部城〕

鎌倉時代以降土持氏一族が所領とした財部を掌握する城で(享保五年「財部大明神縁起」町立高鍋図書館蔵)、長禄元年(一四五七)七月、あがた(現延岡市)の土持氏は南下し財部城に陣を取り、伊東祐尭と合戦となった。この合戦で敗北した土持氏に代わって伊東氏の居城となり、落合氏が城主として入部、天正五年(一五七七)に島津氏が伊東氏を攻略するまで落合氏が領有していた(「日向記」、「先代日向一国時支配覚」予章館文書)。同六年の島津氏と大友氏との高城・耳川合戦でも当城は両者が激しく争奪戦を展開するという要衝であった(「耳川合戦日記」旧記雑録など)。島津氏領となったのちは鎌田政心が財部地頭として城主となり入部している(同八年八月一九日「肥後合戦陣立日記」旧記雑録、「上井覚兼日記」)。同一五年四月、豊臣秀吉方の日向入国後は豊臣方の西田等介が番衆として配置された(六月二五日「福智長通書状」旧記雑録)

〔近世〕

天正一五年七月三日の豊臣秀吉朱印状(高鍋町歴史総合資料館蔵)に高鍋城とみえ、秋月種長は同城と「其廻明所分」を宛行われた。このとき宛行われたのは当城を中心とする新納にいろ院三〇〇町のほか、櫛間くしま(福島、現串間市)四〇〇町と諸県もろかた郡のうち一九八町九段の合せて八九八町九段であった(同一六年八月五日日向国知行方目録)。種長は一時櫛間を本拠としたようであるが、慶長九年(一六〇四)高鍋城に移ることを決定(隈江家記)、以後幕末まで当城を高鍋藩庁とした。同一二年には城郭部分を孤立させるため、野首の一部を掘切る普請が行われている(同書)。種長は同一九年没し、孫種春が襲封。しかし後継をめぐって種長の養子種貞を擁立しようとする紛争に端を発し、寛永三年(一六二六)家臣からの知行借上げをめぐる騒動も重なり、白井権之助派と坂田大学派の勢力争いに発展した。上方下方の騒動と称されるこの騒動は、坂田大学派五三〇人の殺害または退散で決着したが、のち家中では白井派の秋月又左衛門を不忠、坂田大学を忠臣とするのが公論であったと伝える。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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