鶴ヶ城跡(読み)つるがじようあと

日本歴史地名大系 「鶴ヶ城跡」の解説

鶴ヶ城跡
つるがじようあと

[現在地名]会津若松市追手町・城東町

若松城下の南寄り、川右岸の小丘陵上にある。鶴ヶ城の前身は黒川くろかわ城で、中世蘆名氏の居城であった。「会津旧事雑考」至徳元年(一三八四)に黒川東館と記される。黒川は湯川の旧称で、同年に蘆名直盛が館から東黒川館に移ったとき、館を中心にした一帯を黒川と号したという(同書)。「平山城にて周廻凡二十町計後小松院至徳元年葦名直盛の築く所にて安倍某と云者をして此地を祝祭せしめ鶴城と名く或は黒川城とも称す」とある(新編会津風土記)。初めは二の丸・三の丸ともに本丸の東に続き、北と西とは直ちに馬出しをつけ、南方にうし沼という大きな沼があり、これを利用して堀とした。東を追手(正面)とし、西を搦手とし、本丸内に屋形を営んで城主の住居としたという(同書)。しかし鶴ヶ城の名は古い記録にはほとんど出ない。宝徳三年(一四五一)に起きた蘆名氏の家臣松本右馬允と多々良伊賀の争乱の折にも、小高木館の名称を用いている(塔寺長帳)。天文七年(一五三八)三月一五日の大火の際には「黒川城及市井諏方社林木塔共焼也」と記されるが(会津旧事雑考)、「塔寺長帳」では「御館」と称している。同一〇年四月「黒川城十五間棟上伝云」とあり(会津旧事雑考)、再建した黒川城もかなり小規模の建造物であった。天正一七年(一五八九)蘆名氏を滅ぼして会津に入った伊達政宗は、黒川の興徳こうとく寺を仮の居館とした。政宗は黒川城の大々的な修築は行わなかった。翌一八年七月奥羽仕置のため会津に下向した豊臣秀吉も、黒川城には入らず、興徳寺を御座所とした(新編会津風土記)

黒川城と城下を本格的に構築したのは蒲生氏郷で、文禄元年(一五九二)のことである。当時の黒川城下は城も館程度のもので、士屋敷と寺社と町方が雑然と入交じって、「黒かはを袴にたちて着てみれば、まちのつまるはひだの狭さに」という狂歌が詠まれるほどであった(会津四家合考)


鶴ヶ城跡
つるがじようあと

[現在地名]岬町中原 鶴ヶ城・亀ヶ城

中原なかはら北部に築かれた中世の城跡。東に鶴ヶ城、西にかめヶ城と二つの別個の城と考えられ、ともに土岐氏の万喜まんぎ(現夷隅町)支城で前者は鶴見氏、後者は佐々氏が守っていたとされてきた(房総治乱記)。しかし近年の調査により両城は一つの城である可能性が高くなった。城域の規模は南北約一〇〇〇メートル・東西五〇〇メートル、東は中原堰(鶴ヶ城堰)、西は椎木しいぎ(亀ヶ城堰)に挟まれ、南も東上沼ひがしかみぬま・西上沼という地名が残る湿地帯で、自然の要害といえよう。


鶴ヶ城跡
つるがじようあと

[現在地名]瑞浪市土岐町 鶴城

南西流する土岐川西岸丘陵部にある。標高約二〇〇メートル。県指定史跡。北側は切通し、南・西・東の三方は切立った崖で自然の要害をなす。山麓には一の木戸から四の木戸までの跡、井戸跡・礎柱穴などが残る。頂上部は千畳敷とよばれる広場になっており、明治三八年(一九〇五)勧請の土岐神社(祭神土岐頼兼)がある。


鶴ヶ城跡
つるがじようあと

[現在地名]龍神村東

ひがし宮代みやしろの境近くのしろ山にある。在地領主玉置下野守直虎の居城。玉置氏は山地氏を称し、「南紀土姓旧事記」に「山地庄七ケ村今高千弐百石之領主也」とある。山地玉置氏一一代の孫弥三大夫紋之助盛重は、天正一三年(一五八五)豊臣秀吉の紀州攻めの時、湯河氏とともに秀吉軍に抵抗し、鶴ヶ城で一戦を交え、伊藤甲斐守という者を討取っている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「鶴ヶ城跡」の解説

つるがじょうあと【鶴ヶ城跡】


若松城跡(わかまつじょうあと)

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

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