コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

鹿子木荘 かのこぎのしょう

百科事典マイペディアの解説

鹿子木荘【かのこぎのしょう】

肥後国飽田(あきた)郡の荘園。現熊本市北部などを荘域とした。熊本市には鹿子木(かなこぎ)の地名が残る。1086年沙弥寿妙の私領収公を恐れた孫高方が,〈地頭預所職〉を留保して大宰大弐藤原実政に寄進したのに始まる。

出典 株式会社日立ソリューションズ・クリエイト百科事典マイペディアについて 情報

世界大百科事典 第2版の解説

かのこぎのしょう【鹿子木荘】

肥後国飽田郡にあった荘園。現在の熊本県熊本市北部にあたる。鎌倉初期には坪井川流域の東荘(120町以上)と井芹川流域の西荘に分かれていた。早くから寄進地系荘園の代表例とされてきた。開発領主は沙弥寿妙で,孫の高方が1086年(応徳3)国衙の圧迫をさけるため現地管理権を保留し,400石の上納を条件に大宰大弐藤原実政に寄進,1139年(保延5)には実政の外孫隆通(願西)が,さらに200石の上納を条件に鳥羽院皇后高陽院(かやいん)に寄進し(同院死後は菩提寺勝功徳院さらに御室が管領),本家・領家職をもつ荘園として立券された。

出典 株式会社日立ソリューションズ・クリエイト世界大百科事典 第2版について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

鹿子木荘
かのこぎのしょう

肥後(ひご)国飽田(あきた)郡にあった荘園。熊本市北部と、合志(ごうし)市の一部を荘域とする。1086年(応徳3)根本(こんぽん)領主である沙弥(しゃみ)寿妙(じゅみょう)の孫高方(たかかた)が、大宰大弐(だざいのだいに)藤原実政(さねつね)にその所領を寄進したことに始まる。1139年(保延5)立券荘号(りっけんしょうごう)。春宮大夫(とうぐうだいぶ)藤原公実(きんざね)、婿の大納言(だいなごん)藤原経実(つねざね)と伝領したが、その子隆通(たかみち)の代に至り国司(こくし)からたびたび干渉されたため、まず領家年貢(りょうけねんぐ)400石中200石余を割いて高陽院(かやのいん)内親王に寄進し庇護(ひご)を求め、その権利はのちに本家として高陽院の菩提(ぼだい)所勝功徳院(しょうこうとくいん)さらに仁和寺(にんなじ)に受け継がれた。続いて1171年(承安1)平清盛(きよもり)の娘建春門院(けんしゅんもんいん)を介し後白河院(ごしらかわいん)から再立券を受けた。その後地頭預所職(じとうあずかりどころしき)を伝領していた高方の系統も含め数度係争の対象となるが、鎌倉期は、建春門院―後白河院の系統の権利を受け継いだ有力貴族堀川(ほりかわ)源氏が、実質的に荘務権を握っていたらしい。鎌倉期には東・西荘に分かれ、内部に名(みょう)・村などの小単位があり、大友(おおとも)氏の一族詫間(たくま)氏ほか、複数の地頭(じとう)・御家人(ごけにん)が蟠踞(ばんきょ)していた。15世紀中葉以降の荘園としての実態は不明。[山田 渉]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

世界大百科事典内の鹿子木荘の言及

【預所】より

…まず在京預所と在荘預所がある。肥後国鹿子木(かのこぎ)荘は,根本領主寿妙の孫藤原高方が1086年(応徳3)私領を大宰大弐藤原実政に寄進し〈地頭預所職〉は高方の子孫相伝の職となった。一方実政の権限は,彼がまもなく失脚したため春宮大夫公実の系統に継承され〈領家職〉といわれているが,公実の孫の刑部大輔隆通(願西)は,娘の通子に〈預所職〉を与えている。…

※「鹿子木荘」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト世界大百科事典 第2版について | 情報

鹿子木荘の関連キーワード国衙・国府詫磨能秀仁和寺領家倉敷

今日のキーワード

跋扈

[名](スル)《「後漢書」崔駰伝から。「跋」は越える意、「扈」は竹やな》魚がかごを越えて跳ねること。転じて、ほしいままに振る舞うこと。また、のさばり、はびこること。「軍閥の跋扈」「悪辣な商売が跋扈する...

続きを読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android

鹿子木荘の関連情報