観音寺城跡(読み)かんのんじじようあと

日本歴史地名大系 「観音寺城跡」の解説

観音寺城跡
かんのんじじようあと

[現在地名]安土町石寺・桑実寺など、神崎郡五個荘町川並など

きぬがさ(四三二・七メートル)山上にある。近江守護六角氏の居城。繖山南麓は中世東海道が通り、交通の要衝にあたる。国指定史跡。「日本名僧伝」には京都東福寺開山弁円が仁治三年(一二四二)宋より帰朝した際、「観音城東嶺」に住する近江守護佐々木信綱に扁額を贈った旨が記されている。しかし、同書は永正元年(一五〇四)の成立であり、この記述をもって一三世紀に当地に城郭が構えられていたと確定することはできない。

〔当城をめぐる攻防〕

太平記」巻一五(奥州勢著坂本事)によれば南朝方北畠顕家の上洛に呼応蜂起した新田氏一族の大館幸氏は建武三年(一三三六)一月、幼少の六角氏頼(北朝方)が「楯籠リタル観音寺ノ城郭」を攻め落し、また観応の擾乱では氏頼弟の直綱が「佐々木城」に引籠っているが(「園太暦」観応二年九月一一日条)、この佐々木城は当城のこととされるなど、南北朝期には当地に城が築かれていたと思われる。しかし、この頃、六角氏の主城は金剛寺こんごうじ(現近江八幡市)であったと考えられ、同城に代わって六角氏主城となったのは応仁―文明期(一四六七―八七)以降のことと推定される。

応仁・文明の乱では六角当主高頼(亀寿丸)は西軍、京極持清・勝秀父子や先に六角家惣領の地位を追われた六角政尭が東軍にくみし、当城においても攻防が繰広げられた。

観音寺城跡
かんのんじじようあと

[現在地名]八幡町麓

荒瀬あらせ川中流の北岸、出羽山地の西端台地上にある。現八幡町の中心部で、最上川以北の庄内平野を眺望できる位置にある。戦国期に築城した平山城で、天正一九年(一五九一)八月に廃城。反故籠(飽海郡誌)に規模は東西五七間、南北四五間とある。平野に向かって長くせり出した台地上にあり、南西に高く北東に低い。北東に土塁と壕、南端にのろし台があり、本丸は北東寄りにあって、城内通路の石畳が残っている。初代城主来次氏房時代、当城は現在の城跡のある地から西方三〇〇メートルの古楯ふるたてに築城された平城であった。この頃、日向につこう川は福山ふくやま村から山沿いに南下し、古楯の西方大巻おおまきで西に転じ迂回していた。大巻は古楯の天然の要害となっていたが、二代来次時秀は元亀元年(一五七〇)頃、城を古楯から東方台地上の現城跡地に移転した(八幡町史)。天正六年一二月一五日、武藤義氏が木(来)次孫四郎に宛てた充行状写(別集奥羽文書纂所収文書)に「在城并館前之地、両河内其外之所指揚候間、塩味之上、前河廿三貫之所、江地四十貫之所、鷺七貫五百之所、漆曾根十八貫之所、下宮田十貫之所宛行候」とあり、来次氏の所領は旧一条いちじよう村の一部を除く現八幡町全域と現遊佐ゆざ町の一部に広がっていた。

観音寺城跡
かんのんじじようあと

[現在地名]坂城町横尾

現在畑地となり、その一部に稲荷社を祀る。その北に土居の跡をわずかに残し、その北側に深く広い堀跡を残す。南と東の城跡の限界は削平されて明らかでない。村人は観音寺城跡と今に伝える。

天正一〇年(一五八二)上杉景勝の勢力下となり、この地出身の村上景国を海津城代としたが、同一一年六月罷免され、景国は故郷に帰り、横尾の観音寺城を治めて坂木地方を領治することになった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「観音寺城跡」の解説

かんのんじじょうあと【観音寺城跡】


滋賀県近江八幡市安土町石寺ほかにある城跡。標高432mの繖山(きぬがさやま)に位置し、山頂から南斜面の山腹全体に鱗状に広がった曲輪(くるわ)の多くが、観音正寺の遺構ではないかと考えられており、城郭の遺構との区別が今後の課題である。築城年代は明らかでないが、鎌倉時代初期~戦国時代末期まで近江守護を務めた佐々木六角(ろっかく)氏の、戦国時代の居城だった。観音寺城の名は城跡の中心に伽藍(がらん)を構える観音正寺(中世には観音寺)に由来し、南北朝時代に佐々木氏頼(うじより)が観音寺に布陣したことが『太平記』に「観音寺ノ城郭」と記されている。当主が居住する城として石垣を多用して整備されたのは1530~50年代と考えられ、石垣を多用した城郭としては安土城よりも早く、戦国時代ではほとんど唯一の城である。中世の山城としては傑出した規模を誇り、城の中枢部分は本谷をはさんだ境内向かい側の伝本丸、伝平井丸、伝池田丸あたりと考えられ、これらの曲輪は城内でもとくに面積が大きく、四隅のある方形の平面形で、大石を使った壮大な石塁が曲輪を囲んでいる。発掘調査の結果、茶器や中国産の陶磁器などが数多く出土した。1544年(天文13)に城を訪れた連歌師谷宗牧(たにそうぼく)は、城の「御二階」の座敷に案内されると「数寄」の茶室に茶器の名品が用意されており、城の退出にあたっては秘蔵の古筆を贈られたと書いていて、要塞ながら六角氏の風雅な生活の場所であったことがうかがえる。1568年(永禄11)、六角義賢(よしかた)(承禎(しょうてい))・義治(よしはる)父子のとき、上洛をめざす織田信長に侵攻されて落城し、以後は廃城となった。JR東海道本線能登川駅から近江鉄道バス「観音寺口」下車、徒歩約50分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

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