日本歴史地名大系 「観音寺城跡」の解説
観音寺城跡
かんのんじじようあと
〔当城をめぐる攻防〕
「太平記」巻一五(奥州勢著坂本事)によれば南朝方北畠顕家の上洛に呼応蜂起した新田氏一族の大館幸氏は建武三年(一三三六)一月、幼少の六角氏頼(北朝方)が「楯籠リタル観音寺ノ城郭」を攻め落し、また観応の擾乱では氏頼弟の直綱が「佐々木城」に引籠っているが(「園太暦」観応二年九月一一日条)、この佐々木城は当城のこととされるなど、南北朝期には当地に城が築かれていたと思われる。しかし、この頃、六角氏の主城は
応仁・文明の乱では六角当主高頼(亀寿丸)は西軍、京極持清・勝秀父子や先に六角家惣領の地位を追われた六角政尭が東軍にくみし、当城においても攻防が繰広げられた。
観音寺城跡
かんのんじじようあと
観音寺城跡
かんのんじじようあと
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報