黒石村(読み)くろいしむら

日本歴史地名大系 「黒石村」の解説

黒石村
くろいしむら

[現在地名]水沢市黒石町

上姉体かみあねたい村・下姉体村の北上川対岸に位置し、北上高地に続く黒石丘陵に立地。村内は丘陵が起伏し、中央の山を挟んで南を山内やまうち川、北を小黒石こくろいし川が西流して北上川に流入。水田が少なく森林・堤の多い山村である。地名は当地山中に蛇紋石が多く、その色が黒いことによるという。中世までは胆沢いさわ郡、天正一九年(一五九一)の奥郡仕置にともなう郡の再編により江刺郡に所属。小島こじまに式内社石手堰いわてい神社があり、山内の天台宗黒石こくせき寺は天平元年(七二九)行基が薬師堂を建立したことに始まるという現岩手県内屈指の古刹。正法寺しようぼうじの曹洞宗正法寺は、能登総持寺二代峨山韶碩の高弟無底良韶が当地の領主黒石正端の帰依を得て貞和四年(一三四八)に創建した。同五年正月一日に記された正法寺山号寺号由来霊夢記(正法寺文書)に「良韶奥州伊(澤)郡黒石郷ニテ霊夢ヲ感ス」とあり、開創に至る経緯が述べられている。


黒石村
くろいしむら

[現在地名]黒石市黒石・西ヶ丘にしがおかおお町一―二丁目・みどり町一―二丁目、境松さかいまつ一―三丁目の一部

黒石陣屋の西、もと町の南にあたる。興国四年(一三四三)六月二〇日の尼しれん譲状(遠野南部文書)によれば「久ろいしの所里やう」は、工藤貞行の妻である尼しれんから嫡女の加伊寿御前へ譲られた。翌五年二月一三日の尼しれん譲状(同文書)によれば「つかるいなかのこをりくろいしのかう おなしきまん所しきの事」が、南部信光の幼名である力寿丸に譲られている。


黒石村
くろいしむら

[現在地名]馬瀬村黒石

数河すごう村の北にあり、馬瀬川支流いし谷・黒石谷が流れる。古くは黒石垣内くろいしがいとと称したとされ、支村として上野うわの多加良たから和田わだ中林なかばやし・橡洞・庵上あんの赤目あかめ(梅)牟佐々むささ(無笹)がある(斐太後風土記)。元禄飛騨国検地反歩帳に村名がみえ、高六九石余、田二町八反余・畑九町九反余。「飛騨国中案内」によれば免三割六分九厘、家数三六、うち寺一・百姓三三・門屋二。松山小平尾通は御留山、西平・上野山は家木山となっていた(元禄一五年「飛州御林山之改帳」徳川林政史研究所蔵)


黒石村
くろいしむら

[現在地名]窪川町黒石

東又ひがしまた川の左岸に形成された比較的広い平地にあり、「仁井田郷談」(「南路志」所収)によると古くは仁井田にいだ新在家しんざいけ郷一二村の一。天正一七年(一五八九)の仁井田之郷地検帳にクロ石村とみえ、クロ石村の中にはこけかわ大窪おおくぼ村・アシケ馬村があり、総地積一八町四反余、ヤシキ一二筆で、西原分・松沢分・志和分・谷脇分が混在。

江戸時代前期には土佐藩家老窪川山内氏の知行地であった。元禄地払帳によると総地高二六四石余、うち本田高二三二石余、新田高三二石余。本田高はすべて山内常之介知行、新田高は貢物地四石余を除いて同人の知行・役知。寛保郷帳には戸数二五、人口一〇一、馬一〇、牛九とある。


黒石村
くろいしむら

[現在地名]大豊町黒石

かじもりの北西から流れ出る黒石川が、北流して吉野川に合流する付近にある山村。「土佐州郡志」は「中屋村西南、東西四町余南北三町余」と記す。地名は天文二四年(一五五五)五月八日付の中村豊楽寺鐘勧進帳(蠧簡集)に「中村六名」の一としてみえる。天正一六年(一五八八)の豊永地検帳に「黒石名」とみえ、名内には栗内くりがうち村・舟戸ふなと村・黒石村の三小村があり、検地面積六町六反二七代四歩、うち田分四町一反二〇代二歩、畠分一町五反九代五歩、屋敷数一八および堂床一で九反四七代三歩。


黒石村
くろいしむら

[現在地名]上郡町旭日あさひ

小皆坂こかいざか村の北に位置する。集落は佐用郡との郡境の標高三五〇メートル余の山上にある。江戸時代の領主の変遷は元禄一四年(一七〇一)までは上郡村に、同年以降は小皆坂村に同じ。正保郷帳に村名がみえ、田高五一石余・畠高一〇八石余。宝暦一二年(一七六二)の村明細帳(庄家文書)によれば、高一六二石余・反別二〇町七反余、家数三一・人数一三三、牛五。


黒石村
くろいしむら

[現在地名]東条町永福えいふく

少分谷しようぶだに村の南、東条川の形成する東条谷の南東隅にある。正保郷帳では田方一五三石余・畠方一三石余、幕府領。以後の領主の変遷は天神てんじん町と同じ。天保郷帳によると高一八五石余。天保七年(一八三六)の村明細帳(永福区有文書)によると家数三一・人数一六五、牛一三、津出場は北野きたの(現滝野町)


黒石村
くろいしむら

[現在地名]和泉市黒石町

平井ひらい村の東、槙尾まきお川右岸に位置する。池田いけだ谷の一村で、宮里みやざと三ヵ村の一。延元二年(一三三七)一一月日の岸和田治氏軍忠状案(和田文書)に、同年一〇月一九日のこととして「逆徒等令発向天野寺之間、為後縮、馳向国分寺宮里并黒石等、凶徒等陣中悉焼払之処、逆類等自城打出之間、致散々合戦、追籠城中堂」とみえる。


黒石村
くろいしむら

[現在地名]篠山市今田町黒石

四斗谷しとだに村の西、今田村の北に位置する。西部西光寺さいこうじ山、北部に中口なかぐち山があり、東麓を黒石川が流れる。正保郷帳では「黒石村」とみえ、田高七六石余・畠高一一石。元禄郷帳では高九一石余。明和八年(一七七一)の篠山全藩一揆では医師の曲仙や盲人治文らが三〇日手鎖に処されている(安永三年「多紀郡中強訴一件仕置相伺候書付案」小林家文書)。天明三年(一七八三)の篠山領内高並家数人数里数記では高一六二石余で家数四七・人数二〇二。


黒石村
くろいしむら

[現在地名]岩手町黒石

黒石川流域に位置し、東・南・北は一方井いつかたい村、西は葉木田はのきだ村。元禄十郡郷帳では一方井村に入るとある。「邦内郷村志」では蔵分一一石余、家数五。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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