馬瀬村
まぜむら
面積:九七・二八平方キロ
郡北西部に位置し、北から西にかけては大野郡宮村・清見村・郡上郡明方村と金山町、南は下呂町、東は萩原町に接する。東西四・一キロ、南北二八キロの細長い地形をもち、北端は分水嶺の川上岳(一六二五・九メートル)。村の中央を北から南へ馬瀬川が貫流し、集落はすべて川沿いにある。総面積の九六・一パーセントを山林が占める山村。数河桂林寺の絵像本尊裏書には明応三年(一四九四)に「濃州郡上郡馬瀬本郷」の円乗に与えられたことが記され、他の史料と合せ中世には美濃国郡上郡に属していたものと考えられる。
馬瀬村
うまぜむら
[現在地名]海山町馬瀬
矢口浦の北西にあたり、船津川の支流大舟川に沿う。当村東端に椒峠があり、相賀組と長島組の境界である。「神鳳鈔」記載の鳴瀬御薗は、「紀伊国古昔国界考」の馬瀬村説、「志摩国旧地考」の船越(現志摩郡大王町)説がある。慶長六年(一六〇一)の検地帳(徳川林政史蔵)に「馬瀬村」と記される。相賀組に属し、寛政五年(一七九三)の大差出帳(同蔵)に家数三九、人数二五九、牛一三、馬六とある。
馬瀬村
うまのせむら
[現在地名]大垣市馬瀬町
南東の牧村(現安八郡安八町)とともに揖斐川の中洲に位置し、牧輪中を形成していた(宝永元年「濃州川々取払普請所絵図」林家蔵)。西の対岸は古宮村。もとは牧村の枝郷といわれ、牧一色・八貫立村とも称し、八貫立の名は往古年貢諸役を八貫文納めたことに由来するという(新修大垣市史)。馬ノ瀬とも記し、枝郷馬瀬新田があった。
馬瀬村
うまぜむら
[現在地名]社町馬瀬
千鳥川の支流三草川の最上流の谷間に位置し、南西は山口村。中世までの幹道である丹波道が平野部に入る要衝にあたる。文永二年(一二六五)一一月三日の住吉神領杣山四至并造替諸役差定書(大川瀬住吉神社文書)に、三草の北は「ムマセノ西ホトケタニ」とみえる。同差定書には、鴨河の西は「ホトケタニノ小谷河」とみえることから、馬瀬は三草の北に接する仏谷の東に位置し、仏谷の小谷河は鴨河の西境でもあり、馬瀬は鴨河と近接していた。天正年間(一五七三―九二)と思われる清水惣中に宛てた九月七日の平野長治・杉原家次連署書状(清水寺文書)に「馬瀬・鴨百姓参、罷退候間」とあり、この時までには馬瀬と鴨(鴨河)が明確に分離していた。
馬瀬村
うまぜむら
[現在地名]大豊町馬瀬
杖立峠の南南西、角茂谷小川が穴内川に合流する付近に位置する山村。「土佐州郡志」には「戸手野村ノ東北、東西一里南北二十八町」と記す。天正一六年(一五八八)の豊永地検帳には「雨坪名馬瀬村」とみえ、雨坪名内の一村。
元禄地払帳では総地高三七石余、うち本田高二三石余、新田高一三石余。本田のうち一斗九升三合が蔵入地で、残りは仙石新五郎知行。新田はすべて貢物地。延享二年(一七四五)の豊永郷差出控(大家家蔵)によれば新田二六九石余、切畑一〇石余、茶高二〇丸で、井関六ヵ所、田役一三〇人、所林一ヵ所、戸数二〇、人数二三七。文化九年(一八一二)頃の豊永郷中家高人数地高諸覚(同家蔵)は新田高三九二石余。
馬瀬村
うまのせむら
[現在地名]宇土市馬之瀬町
東は下益城郡北田尻村(現富合町)・三十町村、西は椿原村、南は段原村、北は下益城郡硴江村(現富合町)に接し、四方平坦である。村の中央に京泊、東に園田、南西に庄部、西に嶋元などの字地がみえる(郡村誌)。慶長国絵図に村名がみえ、近世は松山手永に属した。
馬瀬村
うまのせむら
[現在地名]大山町馬瀬
熊野川支流黒川右岸の狭小な段丘上に位置し、西は川を挟んで瀬戸村、南は石淵村、北は日尾村。地名の由来は不明だが、馬の背のように狭小な地形からきたものと思われる。正保郷帳の高二七石余、田方二反余・畑方一町六反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の草高三五石、免六ツ、小物成は山役五一匁・炭役五匁・鮎川役一匁(三箇国高物成帳)。
馬瀬村
まぜむら
[現在地名]上石津町三ッ里
牧田川左岸、松ノ木村の西にある。文禄五年(一五九六)の多良山年貢割帳(西脇文書)に馬瀬とあり、「ほうノ木谷」分として五升の年貢が割当てられている。元和九年(一六二三)の時・多良郷家付帳(東高木文書)では家数二五。寛永六年(一六二九)の徳川家光朱印状写(江口文書)によれば高一七五石余が旗本高木貞俊(北高木家)に宛行われている。
馬瀬村
まぜむら
[現在地名]伊勢市馬瀬町
宮川と五十鈴川に挟まれた河口近く、下野村の西にある。「神鳳鈔」に「馬瀬御薗」が記される。地名は建暦三年(一二一三)一一月日の壬生用清治畠等処分状案(光明寺古文書)に「治畠弐段 在馬瀬村作人貞行内人」、応安二年(一三六九)一〇月一四日の久義畠地売券(太田文書)に「箕曲郷馬瀬のむら北みなと」とみえる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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