今田村(読み)いまだむら

日本歴史地名大系 「今田村」の解説

今田村
いまだむら

[現在地名]飯田市今田

現飯田市の南東部、天竜川左岸に位置する。天竜川沿いの沖積地と段丘上の台地とからなる。古代は伴野ともの郷、のちに伴野庄南山みなみやま郷に属し、知久氏の支配下にあった。近世は慶長六年(一六〇一)より幕府領であったが、元和五年(一六一九)旗本井上氏の所領となった。明暦三年(一六五七)再び幕府領となったが、天保一四年(一八四三)飯田藩領となり、弘化三年(一八四六)白河しらかわ藩阿部氏領、慶応元年(一八六五)には、幕府領飯田藩預りとなるなど複雑な所領関係の変遷を経た。

村高は正保四年(一六四七)には二千二九石余(信濃国絵図高辻)であったが、のちしも村が分村したので元禄一五年(一七〇二)には一千八三一石余(信濃国郷帳)に減少した。


今田村
いまだむら

[現在地名]御調町今田

植野うえの村の東北に位置し、西北から東にかけて山地が広がり、村内を南流して御調川支流野間のま川に注ぐ大原おおばら川とその支流域にうしろ谷・谷などの谷が発達し、野間川の東岸までと、南の御調川周辺を主な村域とする。北部に位置する北山きたやまからは弥生式土器が出土、御調川沿いの低地部には条里制の遺構が認められる。

元和五年(一六一九)の備後国知行帳に高三〇三・二一八石とあり、「芸藩通志」では畝数三二町三反余、高三八九・七石。安永三年(一七七四)の今田村の村立実録帖写(三原市立図書館蔵)によると、毛付畝二六町三反余で高三二九・〇一石。


今田村
いまだむら

[現在地名]相馬市今田

阿武隈高地東縁、塩手しおて(二八二・一メートル)東麓の緩傾斜地から北東流する宇多うだ川南岸の台地および平坦地に位置し、東は中野なかの村・成田なりた村・坪田つぼた村。宇多川の旧流とみられるうめ川の上流部の呼称でもある大江おおえ堀は、字湯在小路ゆざいこうじで宇多川から分岐して村内を流れ、中野村と成田村の境に入る。中野村で奥州西街道から分岐した中村街道が村内を通り、宇多川を渡河して対岸の山上やまかみ村字広瀬ひろせに入る。天文七年(一五三八)の段銭古帳に宇多庄のうちとして「いま田」とみえ、段銭八貫八〇〇文とある。


今田村
いまだむら

[現在地名]吹上町今田

中原なかはら村の南西に位置し、西は吹上浜に面する。今田吹上といわれ、とくに堂田の潟どうだのかたからの景色は絶景である(三国名勝図会)。中世は伊作いざく庄に含まれ、庄内の今田名が当地にあった。正応五年(一二九二)伊作庄日置北ひおきほく(現日吉町)をめぐる領家と地頭の相論が和解した際、伊作庄内今田名などの三名は地頭方に去り渡された。ただし名内の寺田・神田には地頭の支配が及ばないとされた(同年一一月三〇日「伊作庄日置北郷和与状」島津家文書)。文保元年(一三一七)には今田名の年貢課役を領家と地頭が均分するとし、また当名内若王子にやくおうじに地頭が公家・関東御祈祷のために寄進した荒野について領家の得分を侵すことのないように定めている(同年六月一七日「伊作庄日置北郷領家雑掌地頭代和与状」同文書)


今田村
いまだむら

[現在地名]川辺町今田

小野おの村の北に位置し、西は広瀬ひろせ(万之瀬川)を境に平山ひらやま村に接する。中世には当初、久辺田くへた・久恵田と記された。これは崩田(くえた)の意で、その新開田が今田であろう。嘉元四年(一三〇六)四月一四日の千竈時家譲状(千竈文書)によると、時家の嫡子貞泰に「くへたのむら」などが譲られている。正平一一年(一三五六)七月日の千竈本阿申状(同文書)では、本阿が「平山村・久辺田両村」の知行について懐良親王の令旨下賜を求めている。永徳元年(一三八一)一月一九日には、「平山村并久恵田村」が千竈尾張守(久家)に与えられた(「島津伊久宛行状」同文書)


今田村
いまだむら

[現在地名]千代田町今田

猿喰さるまめ(七九六・一メートル)の北東に後有田うしろありだ村を囲むようにしてある。村内の東側を南東流する志路原しじわら川沿いと、北東流するその支流今田川沿いを中心に集落が散在。享禄四年(一五三一)閏五月九日付の毛利元就証状(吉川家文書)に、阿那あな(現加計町穴)などとともに「今田」がみえ、当地は吉川興経の所領として安堵されている。

慶長六年(一六〇一)の検地により高九七一・〇四石となる。


今田村
こんだむら

[現在地名]篠山市今田町今田・今田町荻野分こんだちようおぎのぶん

今田新田の北に位置し、北に西寺にしてら山、南に和田寺わでんじ山がある。当初は市原いちはら村のうちで、やはり丹波波多野氏の末孫と伝える波多野定政が寛永年間(一六二四―四四)に開いた新田のうちとされる(波多野家文書など)。市原村と免状が分別されたのは文化一四年(一八一七)とも、文政一三年(一八三〇)ともされるが(多紀郡明細記)、明和八年(一七七一)の篠山全藩一揆では今田組として市原村・本庄ほんじよう村・木津こつ村などの諸村が処分を受けており、今田村でも百姓の太助が三〇日手鎖に処されている(安永三年「多紀郡中強訴一件仕置相伺候書付案」小林家文書)


今田村
いまだむら

[現在地名]桜江町今田

小田おだ村の南東、江尾えのお村の北、八戸やと川中・下流域右岸の氾濫原に立地する。東は帆柱ほばしら(五九三・一メートル)を境に日和ひわ(現石見町)に接する。江戸初期に市山いちやま村から分村し、正保四年(一六四七)の古田領郷帳に村名がみえる。高二〇七石余、免六ツ八分五朱。宝永石見国郷村帳には市山村枝郷とみえ、同高。宝暦一一年(一七六一)の御巡見様御案内手鑑帳(沢津家文書)では高三〇七石余、反別田方一八町余・畑方一三町五反余、免六ツ四分七厘。八戸川の氾濫原は肥沃な沖積土であったが水利が悪く、かつ洪水による水害常襲地であった。浜田藩は普請場に指定し、延宝七年(一六七九)には石見銀山から掘子の応援を求め江尾砂口すなくち井手から用水を取入れるため水門を貫通させた。


今田村
こんだむら

[現在地名]田原町豊島としま

谷熊やぐま村の西にあって、北は安原あばら新田で田原湾に臨み、南は院内いんない数原かずはら新田と接し、東は片神戸かたかんべ村と隣接する。古文書には「根田」「今田」といずれもみられる。「神鳳鈔」に根田御厨とあり、一部は神宮領であった。天保三年(一八三二)の頃、田は二五町七反一畝余、畑は一〇町三畝余(地方秘録)。同一一年に当村安原の丘上へ田原藩隠居三宅友信の邸(安原御殿)が建てられたが、廃藩後取壊された。明治六年(一八七三)頃、安原新田の元締糟谷佐平の宅で、もと藩校成章せいしよう館の教師で片神戸村に住む儒学者阿保廸斎を招いて渥美義塾を開き、経営費捻出のため有志で阿保あぼう講を結んだが、永続しなかった。


今田村
いまだむら

[現在地名]富来町今田・八千代やちよ

富来川中流右岸にあり、下流は和田わだ村。字トンモシから出土したと伝える縄文時代の御物石器が保管され、これはもと地内少彦名すくなひこな神社に奉納されていた(富来町史)正保郷帳の高二三六石余、田一三町七反余・畑二町、免二ツ三歩八厘。寛文一〇年(一六七〇)の村御印には高二六六石、免三ツ六歩、小物成は山役三三匁・苦竹役二匁、鳥役二匁(出来)とある(三箇国高物成帳)。天保年間(一八三〇―四四)の村明細によると村高はあまり変わらず、新田高七石余、家数二五(うち頭振二)・人数一一〇、馬一一、稼は杪・ばい木・炭焼であった。


今田村
いまだむら

[現在地名]山鹿市久原くばる

首石くびいし岩の南西麓に位置し、東は久原村、北・西は上吉田かみよしだ村、南は久原村・霊仙りようぜ村と接するが、霊仙・久原の両村とは耕地が入り交じる。「国誌」によると文禄(一五九二―九六)頃まで霊仙・久原と当村は一村で薄尾すすきお村と称していたが、のち三ヵ村に分れ、そのために田畠も入り交じるという。近世は中村手永に属する。寛文九年(一六六九)の「一統志」に「今田 一目大明神」とある。宝暦一二年(一七六二)の下ケ名寄帳によると惣畝数四一町一反二畝余、高五七八石六斗余、下ケ名に源倉・壱町田などがある。


今田村
いまでむら

[現在地名]城川町魚成うおなし 今田

魚成川が黒瀬くろせ川に入る地域右岸の小村。東は下相おりあい村、西は魚成村に接する。魚成五ヵ村の一(→魚成村

太閤検地の石高は七五石三斗七升、耕地面積の比率は田五七パーセント、畑四三パーセントであった。寛文検地では石高は三・五倍に増加し、面積の比率は田五八パーセント、畑四二パーセントでほとんど変化はない。「墅截」による村柄は「中」、耕地は田が「中」、畑が「中ノ下」、水掛りは「吉」となっている。


今田村
いまだむら

[現在地名]藤沢市今田

さかい川の右岸の台地に位置。西は亀井野かめいの村、南は西俣野にしまたの村、北は七次ななつぎ村。西端を八王子道(滝山道)が通る。中世は亀井野村と併せて一村であったという(風土記稿)。天正一八年(一五九〇)四月日の豊臣秀吉禁制(県史三)には「今田・亀井野二ケ所」とある。宝永五年(一七〇八)旗本細井領と川勝領との二給支配となる。


今田村
いまだむら

[現在地名]舞鶴市字今田

ほり村の北方、池内いけうち川右岸に立地し、谷幅も広く耕地も多い。古くから池内谷およびこの地方の中心的役割を果していたと思われる。佐武嶽さぶがたけの西南山麓の上殿うえどのに円墳があり、金環が出土している。集落背後の山には近世初期上原徳寿軒の居城した城跡があった(田辺旧記)


今田村
いまたむら

[現在地名]東伯町大杉おおすぎ

大杉村の南東に位置する。同村の支村で、明治三年(一八七〇)領内限り一村扱いになったというが(藩史)、幕末の六郡郷村生高竈付などに村名がみえ、生高一一二石余、竈数九。元治二年(一八六五)の八橋郡村々余業取調帳(河本家文書)によれば家数九で、うち余業二(飼博労一、日雇・農業奉公一)であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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