佐賀県西松浦郡有田町を中心とする地域で,江戸時代の初めから焼きつづけられている磁器。江戸時代を通じて,伊万里港から諸国へ積み出されたので,一般に伊万里焼として知られている。有田焼は初期伊万里染付,古伊万里,柿右衛門,幕末伊万里染付などと分類し称せられているが,この区別は明確なものではなく,様式の変遷を大まかにとらえているにすぎない。
江戸時代初頭,有田における磁器の創始は,日本陶磁史上画期的な出来事であった。伝承では,佐賀藩主鍋島氏が文禄・慶長の役後に連れ帰った李参平らの朝鮮人陶工の手ではじめられたという。したがって李朝風な作品が初期的なものといわれてきた。しかし,近年の窯址発掘などによる考古学的な研究の結果,初期の有田における染付磁器は,むしろ中国陶磁の影響を強く受けていることが指摘された。日本向けの古染付,祥瑞(しよんずい)などの明代末の中国磁器は,主として茶の湯の世界で用いられたが,有田諸窯では,それを写した日用雑器の焼造につとめていた。明代末の赤絵を学んで,有田皿山で色絵磁器が行われるようになるのは1640年代の初めころである。しかし色絵磁器の初期の製品は,国内市場よりも海外において高い声価を得ていた。17世紀後半の有田諸窯は,オランダ東インド会社や唐人といわれた中国人商人の手で,盛んに海外へ積み出された。1659年には東インド会社から5万7000余個の染付磁器の注文が届き,そのことで急速に輸出産業の体制に向かう。これは,アラビアのモカ向けのものであったが,のちには,ヨーロッパ向けにも大量に輸出され,色絵磁器がことに賞玩され,染付に赤・金彩を施した色絵古伊万里は,日本独特のやきものとして各地にひろまった。18世紀になると,ドイツのマイセン窯をはじめとするヨーロッパの諸窯で,柿右衛門や古伊万里様式の色絵を模したものがつくられ,中国でも盛んに模されてヨーロッパへ売り出されるようになる。その結果伊万里の輸出は17世紀後半から18世紀初頭を最盛期として減少するが,それでも江戸時代を通じて細々と続けられた。一方,国内市場向けの製品もつくられ,その中で声価の高いのが型物古伊万里といわれる上質の色絵である。型でつくったように同じような製品が焼かれたので,この名があるというが,見込みに染付で荒磯文や琴高仙人図など中国風な文様を描き,周囲には内外ともに濃密な色調で花唐草文などを描くもので,元禄期の華やかさを描き出した器であった。
18世紀中ごろからしばらく低迷を続けた有田皿山が,再び活気をとり戻したのは幕末のことであったようで,染付,色絵など小型で紙のように薄いものから,大型の壺まで多様な製品が焼かれ,1867年(慶応3)のパリ万国博覧会に出品以来,海外でも有田焼の名を高め,現代の有田町における窯業の基礎を築いた。
→酒井田柿右衛門 →鍋島焼
執筆者:西田 宏子
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佐賀県有田町産の焼物の総称だが,主として磁器をさす。開窯された江戸初期から製品が出荷された港名を冠した伊万里焼の名称が通用したが,近年有田町の磁器だとして,地元では有田焼の称が普及している。実体は伊万里焼と同一。江戸時代の磁器を伊万里焼とし,近代の磁器を有田焼ととなえる風潮もある。
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…1640年代になって酒井田柿右衛門が赤絵磁器の技法を工夫し,これを契機に有田(伊万里),古九谷,鍋島などすぐれた色絵・染付磁器が各地で焼かれ,野々村仁清による色絵陶器と相まって日本陶磁史上の一つの頂点を形成した。これらの磁器は,当時南蛮焼と呼ばれていたように,中国磁器の様式に強く影響されたものであり,中国的な意匠による有田(伊万里)焼は,清代の磁器に代わってヨーロッパに大量に輸出された。その中で鍋島焼は,鍋島藩のいわば〈官窯〉として,和様の意匠に孤高の美をつくり出している。…
…富裕なオランダ人は争って高価な中国磁器を購入し,食器としてまた暖炉や壁や食器棚の装飾品として珍重した。1650年代,明末・清初の争乱で中国産磁器の生産が停滞したとき,東インド会社は中国磁器の代替品を有田焼に求めた。1660‐80年(万治3‐延宝8)に,有田窯で生産された染付磁器の膨大な量がヨーロッパ市場へ送られ,しかもこれらの磁器は会社が本国から送った型見本に従って制作されたのである。…
… 1616年(元和2)佐賀県有田町の白川天狗谷窯に始まる磁器生産窯は,各房の幅3.5m前後であるが,16房あり,全長53mという大規模なものであった。有田(有田焼)においても18世紀以降,下房に対して上房の幅の広い,さらに規模の大きい窯体が築かれている。19世紀初めに瀬戸で始まった磁器生産窯は,有田のそれと同様な横狭間・倒炎式の連房登窯で丸窯系と呼ばれるものである。…
…さらに豊臣秀吉は,東松浦半島の北端に名護屋(なごや)城などを築き,朝鮮出兵の前線基地とした。また有田焼は,17世紀初め李朝系の帰化陶工たちによって開窯されて以来発展したものである。幕末・維新期,長崎警備にあたっていた佐賀藩が反射炉,大砲,汽船を製造するなど西洋文化の導入にも先進性を見いだすことができる。…
…日本では単に赤絵,色絵ともいい,中国では五彩(ごさい)とも呼ぶ。江戸時代の初期に中国から輸入された,明末の嘉靖の五彩磁,金襴手(きんらんで),万暦赤絵や,清初の南京赤絵,色絵祥瑞(しよんずい)などの影響を受け,肥前有田では磁胎の錦手が,京都では陶胎の錦手が始められた(有田焼)。ことに有田では釉下に染付で文様を表し,釉上に色絵や金彩を施した豪華な趣の錦手が作られたが,これはとくに染錦手と呼ばれる。…
※「有田焼」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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