古代に海外から渡来して日本に住みついた人々,およびその子孫。平安時代以降もたえず少数の来住者があり,また近代には外国人が日本の国籍を取得することを法律上やはり帰化といっているが,来住者の数が多く,しかもそれが社会・文化の発展のうえでとくに大きな意味をもったのは,平安時代初頭までだったので,日本史上で帰化人といえば,主としてそのころまでの人々を指すのが普通である。現在では渡来人という呼称も用いられる。帰化の語はもとは中華思想から出た語であるが,日本では中国の慣例に従ってこの語を用いていたにすぎず,とくに王化を強調する意図があったわけではない。また,皇別,神別と並べて氏族の系統を分類する場合には諸蕃の語が用いられ,蕃別という語は存在しなかった。
大陸とのあいだの人間の往来は,弥生時代以前からもつねにあったにちがいないが,それが急に盛んになったのは,応神朝のころ,すなわち4世紀末から5世紀初頭にかけての時期と思われる。帰化系氏族の中でも最も歴史が古いと思われる西文(かわちのふみ)氏の王仁(わに)渡来伝説,秦(はた)氏の弓月君(ゆつきのきみ)渡来伝説,東漢(やまとのあや)氏の阿知使主(あちのおみ)渡来伝説などは,みなこの時期のこととなっている。もちろん帰化人にはこのような社会的地位のあった人々だけでなく,一般庶民や戦争の捕虜なども多く含まれていたが,彼らの大部分は畿内の地域に居住地を与えられて,そこでやがて中小の氏族を形成し,各種の学芸・技術によって朝廷で一定の世襲職の地位を与えられるようになっていった。その中の代表的な一群は文筆を専門とする諸氏で,彼らはみな史(ふひと)の姓(かばね)を持ち,いわゆる史部流(ふひとべりゆう)の文章を駆使して記録,徴税,出納,外交その他の業務に携わった。文字の使用は大和国家の行政技術と各種の文化を飛躍的に発達させることになったが,それらの活動は6世紀ころまではほとんど帰化人たちの独占するところであった。そのほか大陸系の進んだ各種の生産技術なども,初めはみな帰化人の専業で,その数が増してくると,やがて雄略朝のころに東漢氏がそれらのかなりの部分を統率する地位を与えられて,大きく発展することになったらしい。これらの初期の帰化人はみな百済(くだら),新羅(しらぎ),任那(みまな)(加羅)などの朝鮮各地から来た人々であるが,その中には前漢以来朝鮮の楽浪郡や帯方郡に来ていた中国人の子孫で各地に分散していたものもかなり含まれており,そのもたらした文化も主として漢・魏を源流とする大陸文化だったとみられる。
これに対して5世紀後半に入ったころから,中国の南朝文化の影響を受けた百済人や任那人などが渡来するようになり,また〈倭の五王〉の南朝通好に伴って中国から直接に渡来する人,さらに6世紀中ごろ以後になると高句麗(こうくり)との関係が好転したために,北朝系統の文化を持った高句麗人などもそれに加わるようになった。これらの新しい帰化人たちは新漢人(いまきのあやひと)などとも呼ばれたが,その新しい学芸・技術をもって古い帰化人を圧倒し,蘇我氏の時代から大化改新の前後にかけて,中央集権的な国家制度の発達と貴族的な飛鳥文化の展開のために目覚ましい活躍をした。初期仏教史上に名高い鞍作(くらつくり)氏の司馬達等(しばたつと)とその孫の止利(とり)仏師,遣隋留学生として中国に赴き,帰国して大化改新に参画した高向玄理(たかむくのくろまろ),僧旻(そうみん)などはその代表的な例である。
ところがやがて663年(天智2)に日本の水軍が唐の水軍との白村江(はくそんこう)の戦で大敗し,百済復興の望みが絶えると,そのとき百済の貴族・官人以下おそらく4000~5000人以上の人々が日本に亡命してきた。またその5年後に高句麗も新羅と連合した唐の軍勢に攻め滅ぼされたが,そのときにも高句麗王族を含むかなり多数の亡命者があった。おそらくこのときの亡命者群が,古代帰化人の中では集団をなして渡来した最大のものだったと思われる。しかしその後は朝鮮半島を統一した新羅との関係がそれほど親密ではなかったためもあって,朝鮮からの渡来者はほとんどなくなり,中国からも,唐僧鑑真(がんじん),波羅門僧菩提遷那(ぼだいせんな),林邑の僧仏哲などのように,遣唐使の往復に伴って渡来したものが散発的にあったにすぎない。このようにして4世紀後半以来の活発な帰化人の渡来は,7世紀半ばでほぼ終止符が打たれることになったが,その間に渡来した初期の帰化人,後期の帰化人,百済・高句麗の亡命者たちは,それぞれの時期の日本古代国家の社会と文化の形成と発展に貢献し,さらにその子孫たちは,みな奈良朝貴族社会の大きな構成要素となり,天平文化の重要な担い手として活躍することになった。しかしそのころには,帰化人たちも渡来後かなりの年代を経ており,また本来の日本人の貴族・官人たちも十分に大陸の学芸・技術を身につけて文化的活動を行うようになったため,一般に帰化人のもつ帰化人としての特色はしだいに失われ,やがて9世紀に入ったころには,その独自の歴史的意義は認められない状態となった。弘仁年間(810-824)に編纂された《新撰姓氏録(しんせんしようじろく)》をみると,そのころ京畿在住の氏族で系譜の確認されたもの1065氏のうち,諸蕃すなわち帰化系氏族は326氏で,全体の約30%を占めており,その内訳は漢(中国系)163氏,百済104氏,高麗41氏,新羅9氏,任那9氏となっている。
執筆者:関 晃
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古代におもに朝鮮から渡来した人々とその子孫。最近では,中華思想をさけて渡来人の語を使用することが多い。応神朝に百済から渡来したとされる東漢(やまとのあや)氏・西文(かわちのふみ)氏は,人質として来日した王子直支(とき)が伴った楽浪(らくろう)官人の子孫らしく,大和王権の外交・記録を担当し,5世紀末以後には新たに今来漢人(いまきのあやひと)を配下に入れて,有力な氏族となった。秦(はた)氏の伝承は疑問が多いが,古くから移住していた新羅系の人々で,6世紀になり山背(やましろ)の勢力を中心に氏族的結合をなした。以後も,7世紀の百済・高句麗の滅亡に際し,多く亡命人が渡来し,奈良時代以後も鑑真(がんじん)のように中国から渡来した人々もあった。彼らが日本の古代国家形成にはたした役割はきわめて大きい。
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…九州や沖縄で発見される縄文前期の土器には,朝鮮で出土する櫛目文土器と共通するものがあり,そのころすでに日朝間に交流のあったことがわかる。また,稲作,青銅器(銅剣,銅矛,銅鐸など)や鉄器を伴う弥生文化は,主として朝鮮半島南部からの集団的な渡来人(帰化人)によってもたらされたと考えられている。その後も2世紀後半には,進んだ鉄工技術と太陽祭祀をもつ朝鮮人集団が断続的に日本に渡来し,3世紀の大和政権は彼らに媒介されて朝鮮南部(辰韓,弁韓など)産出の鉄を確保し,鉄工技術を独占して勢力を拡大していった。…
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