北方領土(読み)ホッポウリョウド

デジタル大辞泉 「北方領土」の意味・読み・例文・類語

ほっぽう‐りょうど〔ホクパウリヤウド〕【北方領土】

第二次大戦ソ連の統治下になり、ロシア連邦日本との間でその帰属問題となっている地域。一般に歯舞はぼまい群島色丹しこたんおよび南千島国後くなしり択捉えとろふをさす。

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共同通信ニュース用語解説 「北方領土」の解説

北方領土

択捉島国後島色丹島歯舞群島の総称。1945年に当時のソ連軍が侵攻し、現在もロシア実効支配する。日本政府は81年、4島の返還運動を盛り上げるため2月7日を「北方領土の日」に定めた。ロシア人住民と日本人の元島民らが相互に旅券や査証(ビザ)なしで訪問する「ビザなし交流」は、新型コロナウイルス感染拡大やロシアのウクライナ侵攻の影響で2019年を最後に行われていない。

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精選版 日本国語大辞典 「北方領土」の意味・読み・例文・類語

ほっぽう‐りょうどホクハウリャウド【北方領土】

  1. 〘 名詞 〙 ( 現在は他国の領土となっているが、北方にある日本固有の領土の意 ) 北海道北方の歯舞(はぼまい)諸島色丹(しこたん)島および南千島の国後(くなしり)島、択捉(えとろふ)島のこと。第二次世界大戦末期以来ソビエト、続いてロシアの統治下にあり、この地域の領有権の帰属が現在においても日本とロシアとの間で問題となっている。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「北方領土」の意味・わかりやすい解説

北方領土
ほっぽうりょうど

第二次世界大戦後、当時のソ連に編入された日本領土、すなわち南樺太(からふと)、択捉(えとろふ)・国後(くなしり)を含む千島列島ならびに歯舞(はぼまい)群島、色丹(しこたん)の諸島のことである。一般に北方領土問題といえば、とくに択捉、国後、歯舞、色丹の四島を意味している。

問題の発端

第二次世界大戦中、1945年2月にアメリカ、イギリス、ソ連の首脳が合意したヤルタ協定は、「樺太の南部及びこれに隣接するすべての諸島がソ連に返還されること」ならびに「千島列島はソ連に引き渡されること」を規定し、さらに同年7月にアメリカ、イギリス、中国の首脳が合意し、8月に日本が受諾したポツダム宣言は「日本国ノ主権ハ、本州、北海道、九州及ビ四国竝ビニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ」と規定していた。

 これらの文書を受けて、1951年(昭和26)に調印された対日講和条約は、北方領土については「日本国は、千島列島並びに日本国が1905年9月5日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する」と規定した(第2条c)。サンフランシスコ講和会議で吉田茂全権は、歯舞、色丹が北海道の一部で、千島に属しないと述べたが、択捉、国後については昔から日本領土だったと言及するにとどまり、西村熊雄(にしむらくまお)条約局長が1951年10月の衆議院特別委員会で千島列島に含まれると述べている。しかし、この条約には千島が最終的にどこに帰属するかは記載されず、ソ連はこの対日条約に参加しなかった。

 1956年日ソ共同宣言は、「ソ連は、日本国の要望にこたえかつ日本国の利益を考慮して、歯舞群島及び色丹島を日本国に引き渡すことに同意する。ただし、これらの諸島は、日本国とソ連との間の平和条約が締結された後に現実に引き渡されるものとする」と規定した。この時期には、日本政府は対日講和条約で放棄した千島に四島は含まれないという立場をとっていたため、歯舞、色丹の返還だけで日ソ平和条約を締結することはできなかった。

 その後、ソ連は日米新安保条約の締結を非難し、1960年1月に、日本領土からの全外国軍隊の撤退がなければ歯舞、色丹の返還もできないという趣旨のグロムイコ外相の覚書を発表した。その後、1972年に大平正芳(おおひらまさよし)外相、1973年に田中角栄(たなかかくえい)首相、1975年に宮沢喜一(みやざわきいち)外相が訪ソし、また1976年にはグロムイコ外相が訪日して、平和条約交渉が行われたが、領土問題は解決ずみとするソ連と、北方領土が固有領土だとする日本側の主張が平行線をたどり、1978年夏ごろからソ連は、国後、択捉に軍事基地を配備し、施設を構築して既成事実を固めた。

返還要求運動と二つの議論

その間、国内では北方領土返還要求運動連絡協議会を中心とする返還運動が盛んとなり、1979年(昭和54)2月に国会で北方領土問題の解決促進に関する決議が採択され、また1981年1月の閣議では、日露和親条約締結の日にちなんで2月7日が「北方領土の日」と定められた。1982年8月には「北方領土問題等解決促進特別措置法」が制定され、2009年(平成21)の改正で、第一条に「北方領土がわが国固有の領土である」と明記された。

 北方領土の返還要求については、日ソ共同宣言に沿い歯舞・色丹二島の返還をまず求め、次いで国後・択捉の返還を求めるという二段階論と、四島同時の返還を求めるべきであるとの四島一括返還論があり、国内世論および政府内の意見が分かれている。

その後の返還交渉

1988年(昭和63)には両国間で次官級平和条約作業部会が設置された。1991年(平成3)にゴルバチョフ大統領が来日した際の共同声明では、北方四島を「解決されるべき領土問題」として明示した。ソ連崩壊後の1992年にはこの地域へのビザなし渡航が開始され、同年9月に両国外務省の協力で「日露間領土問題の歴史に関する共同作成資料集」が作成された。翌1993年にはロシアのエリツィン大統領が来日し、細川護熙(ほそかわもりひろ)首相との間で、北方四島を明記したうえで、領土問題を歴史的・法的事実、両国間の合意文書および法と正義の原則に基づいて解決して平和条約を早期に締結し、両国関係の完全な正常化を図るとする「東京宣言」が調印された。また、1997年にはロシアのクラスノヤルスクで領土問題を含め、橋本龍太郎(はしもとりゅうたろう)首相とエリツィン大統領との会談も開かれたが、交渉は進展しなかった。2001年3月には森喜朗(もりよしろう)首相とプーチン大統領が「イルクーツク声明」に合意し、今後の平和条約交渉の出発点を設定した法的文書と東京宣言に基づいて四島の帰属の問題を解決して平和条約を締結することに合意した。しかし、2010年11月メドベージェフ大統領は、ロシアの最高指導者として初めて北方領土の国後島を訪問し、北方領土の実効支配を既成事実化する動きを示した。

今後の対応

北方領土問題の解決は、ロシア側の強硬な態度に鑑(かんが)み、困難が予想されるが、「東京宣言」に記載されているように、過去に締結された国際合意を含め法と正義に基づく解決が期待される。日本は、領土返還にあたって、現在居住中のロシア住民には配慮し、帰属の確認を条件に実際の返還時期、態様については柔軟に対応するとしている。

[石本泰雄・宮崎繁樹]

『国際法学会「北方領土の地位――千島・樺太をめぐる諸問題」(『国際法外交雑誌』60巻4・5・6合併号所収・1962・有斐閣)』『高野雄一著『日本の領土』(1962・東京大学出版会)』『洞富雄著『北方領土の歴史と将来』(1973・新樹社)』

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