翻訳|Socrates
古代ギリシアの哲学者。アテネに生まれる。自分自身の「魂」pschēをたいせつにすることの必要を説き、自分自身にとってもっともたいせつなものは何かを問うて、毎日、町の人々と哲学的対話を交わすことを仕事とした。そして、おそらくはこの仕事のために嫉(そね)まれて告発され、裁判され、死刑の宣告を受け、毒杯を仰いで死んだ。裁判の模様と獄中および死去の場面は、弟子プラトンが書いた哲学的戯曲(プラトンの対話篇(へん))『エウチュプロン』『ソクラテスの弁明』『クリトン』『パイドン』の諸作品に詳しい。そこに描かれた、死に面するソクラテスの平静清朗な態度は、生死を越えた重大事に対面する哲学者のあり方を示すものとして、読む人の心にせつせつとして迫らずにはおかない。
ソクラテスは書物を書かなかった。その周囲にあった何人かの人が彼について書き、われわれはこれによって彼を知るが、そのうちのだれを、また、どこまで信ずべきかという点に問題があり、これを哲学史上「ソクラテス問題」という。通常は、弟子のなかでもっとも傑出した哲学者であるプラトンの伝えるソクラテス像を骨子とし、これに他のものを補うことが多い。
若いころのことについて、確かなことは知られない。われわれに親しいのは、年配のソクラテスがアテネの街角や体操場で美しい青少年を相手に、また町の有力な人々を相手に、人を幸福にするものは何か、善(よ)いものは何か、勇気とは何かと問いただしている姿である(これをソクラテスの問答法=ディアレクティケーという)。これらの問答の主題は、多くこのように実践に関するものであった。そして、この問答はいつも「まだそれはわからない」という無知の告白を問答者が相互に認め合うことで終わった。この際、相手は、ソクラテスがそういいながらも実は自分では知っているという印象をもつことが多く(ソクラテスのイロニー)、そこで自己の無知を露呈された人々は、ある場合、ソクラテスのやり口の陰険さに怒った。
しかし、ソクラテスの真意は、各人が自己の存在がそれによって意味づけられている究極の根拠についての無知を悟り、これを尋ねることをなによりもたいせつなことと知るように促すことにある。もとより、ソクラテスがこの根拠を知るというのではない。むしろ、究極の根拠についての無知を悟り(無知の知)、それへの問いかけを通じてこの「行き詰まり」(アポリア)のうちにとどまるところにソクラテスの愛知(フィロソフィアー=哲学)がある。それは根源から問いかけられるものとしての場に、己を置くことであり、このような方法で己が全体として根源から照らされることである。
ソクラテスの容貌(ようぼう)は醜く、両眼は突出し、鼻はひしゃげた獅子(しし)鼻であった。しかし彼と語り合った人はそのことばに魅せられ、その内面にあるもののとりこにされてしまった。この外と内の背反に、彼の存在の本質がある。
これまでのギリシアの哲学者は宇宙の原理を問うた。ソクラテスにおいて、初めて自己と自己の根拠への問いが哲学の主題となる。この意味において、ソクラテスは内面(魂の次元)の哲学の祖である。また、自己への問いは、自己を根拠づけている「見えないもの」(超越)への問いであるという意味では、彼は形而上(けいじじょう)学の祖である。ただソクラテスにおいては、内面は、根拠によって問いかけられるところから生ずる「行き詰まり」のうちにどこまでもとどまる愛知の道行きとしてだけ示されるものであった。こうして、ソクラテスは外と内との裂け目を通じて開示される「根源」の問題を哲学の関心の中心に、その生と死の証(あかし)をもって引き据えることにより、西洋哲学の重みを一身に負う人となった。
[加藤信朗 2015年1月20日]
『田中美知太郎著『ソクラテス』(岩波新書)』
古代ギリシアの哲学者。アテナイのアロペケ区に生まれた。父ソフロニスコスは石彫家だったと伝えられるが,確証はない。母ファイナレテは助産術を心得ていた。クサンティッペXanthippēと結婚したのはかなり晩年のことで,ソクラテスが死んだとき,3人の子どもはまだ年少であった。有名な悪妻伝説は,おおむね後代の誇張された作り話である。ペロポネソス戦争期に,重装歩兵として北ギリシアに2回,ボイオティアに1回従軍し,賞賛すべき忍耐心と沈着の勇を人々に印象づけた。また,このとき以外にはアテナイの町を離れることがなかったという。若いころには自然研究にもたずさわったが,後年は人間の問題のみに関心を向け,アテナイの街頭や体育場などで対話・問答を行いながら過ごした。彼の魅力的な人格とユーモアに満ちた鋭い論法に共感する若者たちが〈ソクラテスの仲間〉を形成し,プラトンもそのサークルにあって大きな影響を受けた。彼はまた一面において,年少のころから〈ダイモンの(禁止の)声〉を聞き,しばしば深い忘我状態を経験する〈憑(つ)かれた人〉でもあった。ペロポネソス戦争終結から5年後の前399年,不敬神のとがで告発を受け,裁判の結果死刑に処されて生涯を閉じた。彼は何一つ著作しなかった。プラトンの(おもに初期の)対話編のほか,クセノフォンのソクラテス関係著作が,彼の生涯と思想を知るための主要な手がかりである。
ソクラテスは,ソフィストたちの唱道する〈徳〉および世のいわゆる知者たちのもつ〈知〉を根本的に問い直した。そして,〈徳は知〉であり,〈魂への配慮〉としての知の追求こそが真に〈よく生きる=幸福である〉ために何よりも心がけるべきことであると主張するとともに,〈知〉とは本来けっして誤ることのない絶対確実なものであるとすれば,真の知者は神のみであり,われわれ人間は善美の事柄を何一つ確実には知らない存在であると考えた。こうした自覚への機縁となったのは,〈ソクラテス以上の知者はいない〉というデルフォイの神託であった。彼はその意味を解明するために,世に知者と呼ばれている人たちを吟味して歩いた結果,彼らの方は〈何も知らないのに知っていると思い込んでいる〉のに対して,彼のみがみずからの無知を自覚している,すなわち〈無知の知〉という一点において相違していることに気づいた。そしてさらに,神託の真意はソクラテスに名を借りてすべての人間の無知を悟らせることにあると考えるに至った。〈徳とは何か〉〈正義とは何か〉といった問いを中心に,人々が知っていると思い込んでいる事柄を吟味論駁し,無知を悟らせる活動は,彼が〈神命〉としてみずからに課したものであった。この問答の過程に示された知の基準の厳格さ,論理と方法への明確な意識,〈何であるか〉という問いに込められた本質への指向などは,彼の生死のありかたそのものとともに,哲学に大きな転換と飛躍をもたらす原動力となった。
執筆者:藤澤 令夫
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前469頃~前399
ギリシアの哲学者。アテネに生まれ,そこを生涯,活動の場とした。著作は一つもないが,問いと答えの対話術によって相手に無知を自覚させ,真の知に至ろうとする奮起を促した。その「無知の知」へ駆り立てる方法は,独特の皮肉と論理的スタイルを備え,相手に自発的魂の尊さを教えた。彼の方法は危険な詭弁(きべん)とも受け取られ,裁判のすえ死刑に処せられたが,弟子プラトンの数多くの作品に,その姿が刻まれている。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…プラトンの対話編《メノン》では公正で穏健な人物であるが,ソフィストに対する熱心な批判者として描かれている。前399年,その政治観に基づいて,弁論家のリュコンとはかりメレトスという青年をして古来の神々をないがしろにしたとの罪でソクラテスを告発させ,処刑に至らせた。【前沢 伸行】。…
…彼の著とされるが実は後代の作である《人相学》は,顔貌と牛・獅子・犬・猫などの動物と比べながら性格を論じている。キケロ《トゥスクルム論叢》に,ゾピュロスがソクラテスの顔に数々の悪徳を見,他のだれもソクラテスにこれを認めず嘲笑したが,ソクラテスはゾピュロスの言を認め,それら悪徳は生来自分にあったが理性で遠ざけたと言ったという話がある。占星術は人相学を重要な部門として発展させた。…
…ここにイオニアの自然学をもち込んだのは,ペリクレスの友人となったアナクサゴラスである。ソクラテスもはじめはこうした自然学に興味を示したが,そこには自然の構造が〈善く〉〈正しく〉つくられているゆえんがなんら説明されていないのを見いだして失望し,むしろ善き〈魂の配慮〉を求めて倫理的規範の問題に探究を移し,そこにあるべき理想,理念としての〈イデア〉を発見した。プラトンはこれをうけついで,イデアを倫理的行為の問題だけではなく,再び自然学のなかにとり入れ,その著《ティマイオス》において創造者(デミウルゴス)がイデアを〈範型〉としてこの宇宙をつくり上げる独特の数学的自然学を展開した。…
…ヘラクレイトスは〈万物は一つ〉と言ったが,原子論においても万物は一つなのである。
[自然・人間・宇宙]
ところで普通の哲学史では,ソクラテス以前の哲学とソクラテス以後の哲学との間に一線を引き,ソクラテスが魂を中心にした人間の哲学を開始したが,それに比べると彼以前の哲学は自然哲学であると言われる場合がある。たしかにそうした哲学史的区分にも意味がないわけではないが,過度の単純化は事の真相を誤らせる。…
…アテナイにやってきた高名なソフィストたちの活動の実態は不明の点が多いが,彼らが言語の〈法則〉,すなわち語彙(ごい)・文法・修辞の諸問題を熱心に論じたことは確かであり,彼らの教説が議会や法廷における弁論の技術はもとより,悲劇・喜劇の中にまで著しい影響を与えていることは確認できる。アテナイの哲人ソクラテスの対話のねらいも,実はギリシア語統辞論の目覚めと不可分の関係にある。アテナイの散文技法の特色は,詩文よりもはるかに正確に主語と述語の論理的関係を明示しうることであった。…
…
[政治学の歴史]
政治についての体系的な研究は,紀元前5世紀のギリシアにおいてはじまった。ソクラテスにおける〈善きポリスと市民〉の問いにはじまった政治についての学問は,プラトンにおける理想のポリスの探求,アリストテレスにおける経験的なポリス国制の比較研究へと発展していった。しかし,ポリスの共同体的特質を反映して,そのいずれにおいても,政治の規範的研究と経験的研究は直接的に結合し,したがって政治学はまた〈善き市民〉としての生き方を説く倫理学でもあった。…
…クセノフォン作のソクラテス回想録。4巻から成り,2巻までは前399年死刑になったソクラテスを弁護し,宣告を下したアテナイ人たちを非難することを主題としている。…
…また弁論術は説得を目的とするために,主張される事柄の当否よりも説得の手段の方を重視する傾向があり,ソフィストは〈弱論を強弁する〉という非難を受けた。ソクラテス,プラトン,アリストテレスなどの哲学者も,ソフィストの知恵・知識にはごまかしが含まれていることを指摘し批判した。とくにプラトンは,その著作(対話編)の多くに著名のソフィストを登場させ,ソクラテスとの対比のもとに,彼らの正体を批判的な目で生き生きと描いていて,ソフィストを知るための有力な資料ともなっている。…
…次いで前6世紀後半以降,ピタゴラス学派において,〈愛知〉は,名利を離れて知を愛求するという意に深められたようである。 これらの考えを受けて,前5世紀後半のソクラテス,およびその弟子プラトンの段階に至って,ギリシアにおける〈愛知〉の意味はほぼ確定した。ソクラテスおよびプラトンによれば,人間にとってたいせつなこと最も尊いことは,単に生きることではなく,むしろよく生きることである。…
… ひげを敬った古代ギリシア人は医神アスクレピオスに金の髯を与え,神話中最強の英雄ヘラクレスにみごとな髭をつけただけではない。ソクラテスは白いひげでほおから下を包んでいたが,一般にひげは知の象徴として敬われており,当時の人々にならってローマの詩人ペルシウス・フラックスも彼を〈ひげ先生〉と称している。さらにユダヤ人,トルコ人,ペルシア人などの間でも,ひげは男性的な権威の印であって,これをそることは致命的な恥辱だった。…
…古代ギリシアの大哲学者。ソクラテスから受けた決定的な影響のもとに〈哲学〉を一つの学問として大成した。イデア論を根本とする彼の理想主義哲学は,弟子アリストテレスの経験主義,現実主義の哲学と並んで,西欧哲学思想史の全伝統を二分しつつ,はかりしれぬ影響と刺激を与えている。…
※「ソクラテス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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