共同通信ニュース用語解説 「チュニジア」の解説
チュニジア
人口約1190万人でアラブ系98%。国教はイスラム教。反政府デモの拡大で20年以上続いたベンアリ政権が2011年1月崩壊。暫定政権を経て14年、表現の自由などを定めた新憲法を承認したが、今年7月、大統領権限を拡大する新憲法案が国民投票で承認され、独裁への懸念も広がる。サッカーのワールドカップ出場は2大会連続6回目。(チュニス共同)
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人口約1190万人でアラブ系98%。国教はイスラム教。反政府デモの拡大で20年以上続いたベンアリ政権が2011年1月崩壊。暫定政権を経て14年、表現の自由などを定めた新憲法を承認したが、今年7月、大統領権限を拡大する新憲法案が国民投票で承認され、独裁への懸念も広がる。サッカーのワールドカップ出場は2大会連続6回目。(チュニス共同)
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北アフリカの地中海沿岸のほぼ中央に位置し、イタリアのシチリア島の対岸にあるタツノオトシゴの形をした国。正称はチュニジア共和国Al-Jumhurīya at-Tūnusという。面積16万3610平方キロメートル、人口991万0872(2004年センサス)、1012万6000(2006年推計)、1027万3000(2009年推計)。東はリビア、西はアルジェリアと国境を接する。南部はサハラ砂漠の一部で、人口の大部分は北部の沿岸部に分布する。首都チュニス(人口74万5000。2007年推計)の東郊にはカルタゴの遺跡があり、北部地方は古くからローマの穀倉とよばれ、現在でも小麦、果樹、野菜、オリーブの産地である。スケールの大きい古代遺跡、明るい太陽、ヤシの林と白い砂浜、コバルトブルーの地中海、白い家と砂漠のオアシスといった観光資源に恵まれ、ユネスコ世界遺産に登録された遺跡も数多くあって、ヨーロッパからの観光客が多い。農業、観光のほか、近年石油・天然ガスの産出により工業化を進めており、1人当りの国民総所得(GNI)は3290ドル(2008)である。
[藤井宏志]
全体として平野、丘陵が広く、農耕地に恵まれている。北アフリカの地中海沿岸西部を東西に走るアトラス山脈は、東に行くにつれて低くなり、チュニジアでは山地から丘陵となる。東海岸にはサヘル平野が広がっている。最高峰はアルジェリアとの国境に近いシャンビ山(1544メートル)である。山脈の南は低地で、ガルサ湖、ジェリド湖などの塩湖があり、ガルサ湖は海面より低い。南部は砂漠で、平地と低いクスール山脈からなる。河川のほとんどが降雨時のみ水流のあるワジ(涸(か)れ川)で、年間を通じ水量があるのはアルジェリアに水源をもつメジェルダ川のみである。
[藤井宏志]
北部は夏に乾燥し冬に降雨をみる地中海性気候で、雨量は南へ行くにしたがって少なくなりステップ気候となる。さらにガフサとスキーラを結ぶ線より南は、年降水量150ミリメートル以下の砂漠気候となり赤茶けた大地が広がっている。砂漠には、トズール、ネフタなど湧水(ゆうすい)を利用したオアシスがある。北西部ではアインドラハムのように年降水量1500ミリメートルを示す所もあるが、全体に降水量は少なく、農耕や工業化に大きな制約を受けている。冬季は、南部は温暖であるが、北部とくに内陸部では寒くなり雪をみることがある。夏季は全体に高温で乾燥し、南部のサハラ砂漠では耐えられないほどの暑さとなる。マトマタ山地では、暑さを避けるため深い竪穴を掘り、その底部周辺に地下式住居をつくっている。春から夏にかけ、サハラ砂漠内部からシロッコとよぶ砂まじりの熱風が吹く。雨の少ない国なので堤防、排水路が整備されておらず、たまに大雨があると洪水になり大きな被害を生じる。
[藤井宏志]
国土は地中海性気候の北部テル地域、年降水量200~400ミリメートルのステップ地域、砂漠気候の南部サハラ地域の3地域に区分される。北部テル地域は、面積は国土の6分の1だが人口の60%が住むもっとも豊かな地域である。沿岸の平野、丘陵、メジェルダ川流域では、小麦、ブドウ、柑橘(かんきつ)類、野菜、オリーブなどの商品作物栽培や牧畜が行われる。ルケフ、スーク・エル・アルバ、スーク・エル・ケミス、マトゥール、ベッジャは農業地帯の中心都市である。首都チュニスは国の政治、経済、文化の中心であり、ビゼルトは古くからの港湾都市である。両都市とも周辺に工業が立地している。
ステップ地域は、内陸高原で半遊牧の牧畜、製紙原料のアルファ草、穀物栽培が行われている。サヘルとよばれる沿岸地域では、灌漑(かんがい)による大規模なオリーブ栽培が広がっている。また沿岸では古くから漁業が盛んである。ガベス周辺では燐(りん)鉱石を産出し、鉄道でスファックスに輸送され、加工して輸出される。スースとスファックスが港湾・工業都市である。
南部サハラ地域では、トズール、ネフタなどオアシスでナツメヤシ栽培と遊牧が行われる。ボルマ油田やエジュレ油田(アルジェリア)からの原油はパイプラインでスキーラに運ばれ、天然ガスはガベスに輸送される。ジェルバ島はオリーブや果樹が栽培され、海浜リゾートの観光地としても知られている。
[藤井宏志]
独立までのこの国の歴史は異民族による支配の歴史であった。地中海の要地というこの国の地理的位置が、古くから多くの国の侵略をもたらしたのである。古代には、フェニキア、ローマ、バンダル、ビザンティンによる支配を受け、7世紀にはアラブ人の侵入により先住民ベルベル人はしだいにアラブ・イスラム(イスラーム)化した。中世にはアグラブ朝、ムラービト朝、ハフス朝が興亡し、アラブ・イスラム化は深化した。16世紀なかばにオスマン帝国の属領となり、チュニジアを統治するパシャ(太守。のちベイと称する)を任命した。このパシャの統治範囲が現在の国土の原形となった。パシャの下にあった軍人集団の代表がしだいに実権を握り、その地位を世襲化してムラード朝(1613~1705)、フサイン朝(1705~1958)を樹立した。19世紀前半、フサイン王朝は隣国のアルジェリア、リビアが植民地化されるのをみて危機感を強め、富国強兵、殖産振興の近代化政策をとった。しかし財政支出の増加で国家財政が破綻(はたん)し、1869年フランス、イギリス、イタリア3国に財政管理され、1878年のベルリン会議を経て、1881年のバルド条約、1883年のマルサ協定でチュニジアはフランスの保護領となり、内政についてもフランス人統監の支配下に置かれた。フランスの銀行家、企業家は、大農園を経営、鉱山を開発し、チュニジアの経済を握って大きな利益をあげた。
形骸(けいがい)化したチュニジア人の主権の回復を求める民族運動は20世紀に入り激化した。1907年青年チュニジア党が結成され差別に抗議した。第一次世界大戦後、憲法の制定を求める運動が展開され、1920年デストゥール(立憲自由)党が結成されたが、1934年ハビブ・ブルギバを中心とする急進派は党を出てネオデストゥール党を組織した。フランス人民戦線内閣が成立すると、同党はチュニジア労働総同盟(UGTT)と結んで保護条約の改廃を要求し、ブルギバは逮捕された。第二次世界大戦の開戦直後、フランスの敗戦によりビシー政権下に入り、1943年1月リビアを撤退したドイツ・イタリア軍と連合軍との間の戦いで全土が戦場となった。カルタゴ遺跡の近くにはこの戦いで戦死した連合軍将兵の広大な墓地がある。
第二次世界大戦後、フランスはチュニジア人とフランス植民者との共同主権構想を打ち出したが、ネオデストゥール党やUGTTは独立を要求した。1954年7月マンデス・フランス内閣は内政上の自治を認め、翌年保護条約を大幅に緩和し、1956年3月20日独立が実現した。同年3月25日制憲議会選挙が実施されネオデストゥール党が圧勝した。翌年名目だけのベイ制を廃止して共和国となり、ブルギバが初代大統領に就任、1959年には共和国憲法が公布された。ブルギバは独立後もフランス軍のビゼルト海軍基地駐留を認める(1963年撤退)など現実主義的路線をとった。1964年にはチュニジア型社会主義建設を目ざし、ネオデストゥール党の党名を社会主義デストゥール党(PSD)と改称し、農業で協同組合方式の集団化を進めたが、大地主、商工業者の反対で1969年中止した。
[藤井宏志]
初代大統領ブルギバは、独裁的指導者として32年間その地位にあったが、1987年、老齢化を理由に解任され、首相のベンアリが大統領に就任した。ベンアリは大統領就任後、政党法を制定して複数政党制を導入し、憲法を改正して終身大統領制を廃止し、大統領の選出を国民の直接選挙にするなど、民主化を進めていった。1989年に実施された総選挙では与党立憲民主連合(RCD)が全議席を獲得し、大統領選挙ではベンアリが当選。1994年の総選挙では与党RCDが全議席の88%にあたる144議席を占めたが、野党も19議席を獲得し、複数政党からなる国民議会が誕生。大統領選挙はベンアリが再選された。1999年10月に行われた複数候補者による初の大統領選挙でもベンアリが選ばれ(3選)、総選挙では182議席中、与党RCDが148議席、野党が34議席を獲得した。2002年5月には憲法改正のための国民投票が行われ、99%の支持を受けたが、この改正は大統領の再選回数の制限を撤廃するもので、ベンアリの多選が可能となった。また、これまで一院制であった議会を二院制に移行することが決定した。2004年の大統領選挙はベンアリが当選(4選、5期目)、総選挙では与党RCDが国民議会189議席の約80%にあたる152議席を獲得。2005年には、2002年の憲法改正により新設された評議院(上院)議員選出が実施された。2009年10月の大統領選挙でベンアリが当選(5選)、6期目となった。
イスラム主義運動組織に対しては、警官を2万人から8万人に増員するなど強硬な政策をとっている。司法は、独立直前に宗教裁判制度が廃止され、フランスに倣った近代司法制度が確立されている。独立後新しい民法が施行され、一夫一婦制と女性の地位強化に意を用いている。軍隊は、1956年国民による軍が組織され、選抜徴兵制(1年)をとる。2003年より女性にも兵役が課された。兵力は陸軍2万7000人、海軍4800人、空軍4000人で、計3万5800人である(2007)。フランス、アメリカの軍事援助を受けている。イスラエルを承認しており、ほかのアラブ諸国ほど軍備拡張をしていない。
[藤井宏志]
チュニジアの経済は、農産物、燐(りん)鉱石の輸出やフランスが第一の貿易相手国であることなどに植民地時代の名残(なごり)がみられるが、独立後の石油産出と1987年以来、十次にわたる経済開発計画により工業化が進み、貿易相手国の多角化も図られてきた。都市人口の比率が高く商業活動が活発で、国内総生産(GDP)におけるサービス産業の比率は60.0%(2006)である。チュニジアの経済は、農産物、石油、燐鉱石、委託加工産業、海外移民の送金、観光により支えられているが、移民の送金、観光収入、委託加工産業はヨーロッパの景気の影響を受けやすい。
第八次五か年計画(1992~1996)では市場経済を確立し、年6%成長を目標とした。1995年にはEU(ヨーロッパ連合)との間に自由貿易ゾーンを設定するパートナーシップ協定を締結した(1998年発効)。計画期間中、インフレ率は4.9%に抑えられたが失業率は17%と高く、失業問題解決が課題とされた。第九次五か年計画(1997~2001)では、年平均5%以上の経済成長を達成、失業率は15.6%と初めて減少、インフレ率は3%以下に抑制されるなどの成果をあげた。第十次五か年計画(2002~2006)では、年平均5.5%の経済成長、年平均7万6000人の新規雇用を創出して失業率をさらに減少させ、国民貯蓄率を対GDP比25%以上まで増加させて対外債務を抑制することなどを目標とした。『2008年版世界競争力報告』(世界経済フォーラム)では36位とアフリカ諸国では最上位である。
[藤井宏志]
農林・漁業就業者人口は21.0%(2002)とアフリカでは比較的低い。穀物では小麦、大麦、地中海作物ではオリーブ、オレンジ、ブドウ、蔬菜(そさい)としてトマト、タマネギ、スイカ、ジャガイモ、工芸作物ではアルファ草、テンサイなどが栽培される。オレンジ、オリーブ油などを輸出しているが、主食の小麦は自給できず輸入している。
かつてヨーロッパ人が所有していた農園は一時国有化されたが、いまでは大部分私有化されている。牧畜では乳牛・肉牛が71万頭、ヒツジが762万頭のほか、ニワトリ、ラクダ、ロバ、ヤギが飼育されている(2007)。漁業は古くから行われ、10万トン(2007)を漁獲し、ビゼルト、マトゥール、スファックスなどに漁港があり、水産加工も行われている。
[藤井宏志]
工業就業者人口は約28%(2002)を占める。独立後の工業化で、繊維、食品だけでなく、鉄鋼、石油精製、石油化学、セメント、肥料などの工業も発達した。衣類、エレクトロニクス、機械、自動車などの欧米の委託加工産業が発展している。皮革、じゅうたん、陶器、織物などの伝統工芸も盛んである。代表的な鉱産物である燐鉱石は年産230万4000トン(2007)で、ほかに塩110万1000トン、鉄鉱石12万トンなどを産する。原油は南部のボルマ油田を中心に340万トン(2007)を産出し、天然ガスの産出が増加して94PJ(ペタジュール。石油換算で224万5190トン)となっている。
[藤井宏志]
主要輸出品は石油、石油製品、オリーブ油、衣類、機械類、燐鉱石および肥料などで、主要輸出相手国はフランス(32.3%)、イタリア(23.3%)、ドイツ(8.2%)、スペイン(5.2%)である。主要輸入品は生地(きじ)、鉄鋼、機械、石油製品、自動車などで、主要輸入相手国もフランス(21.8%)、イタリア(19.5%)、ドイツ(7.9%)、スペイン(4.6%)となっており(2007)、EU諸国との経済関係が深い。貿易収支は輸入超過である。
[藤井宏志]
国民の大部分はアラブ人で、ベルベル人(アラブ人侵入以前からの住民)は南部に6万人ほどいる。公用語は正則アラビア語であるが、一般生活ではアラビア語チュニジア方言を話す。都市では一般にフランス語が通じる。宗教はイスラム教(イスラーム)が国教で、国民の98%がイスラム教徒(ムスリム=イスラーム信者)であり、残りはキリスト教徒が1%、ユダヤ教徒およびその他が1%である。戒律の守り方は緩やかで、ベールを着用しない女性がみられるし一夫一婦制が定着している。一方、イスラム主義運動組織の台頭もみられる。人口密度は1平方キロメートル当り63人、人口増加率は年平均1.2%(2000~2007)である。労働移民の就業先は隣国リビアと旧宗主国フランスが多い。医療は都市ではかなり整備されているが、地方ではまだ不十分である。平均余命は全体で73.8歳で、男71.8歳、女76.0歳である(2007年推計)。
国民性は、親しみやすく、親切、勤勉である。アラブ・イスラム文化が風俗、習慣や考え方の基盤にあり、そのうえにフランス文化がのっている。バルドー博物館(チュニス)ではフェニキアからアラブまでの文化遺物をみることができる。ユネスコの世界遺産に、文化遺産として「チュニス旧市街」「カルタゴ遺跡」「エル・ジェムの円形闘技場」「ケルクアンの古代カルタゴの町とその墓地遺跡」「スース旧市街」「カイルアン」「ドゥッガ」が、自然遺産として「イシュケル国立公園」が登録されている。義務教育は小学校6年間、中学校3年間の計9年間で、学校制度はフランスに準ずる。最高学府は総合大学のチュニス大学である。成人識字率は77.7%で、男86.4%、女69.0%である(2007)。
[藤井宏志]
親日的な国で、閣僚が相互に訪問している。1996年(平成8)には大統領ベンアリが国賓として来日した。日本から通信施設、火力発電所建設などの経済協力のほか、国際協力機構による水産専門家、1974年(昭和49)以来、青年海外協力隊(医療、日本語、自動車整備など)が派遣されている。青年海外協力隊の日本語教室は文化交流のうえで将来大きな影響をもつと思われる。2008年の対日貿易は、日本への輸出が魚貝類(クロマグロ)、パルプ、ガソリン、衣類など122億9400万円、日本からの輸入が自動車、タイヤ、電気電子機器など90億4300万円となっている。
[藤井宏志]
『在チュニジア日本国大使館編『チュニジア共和国』(1972・日本国際問題研究所)』▽『宮治一雄著『アフリカ現代史Ⅴ 北アフリカ』(1978・山川出版社)』▽『日本貿易振興会編・刊『ジェトロ貿易市場シリーズ192 チュニジア』(1980)』▽『『開発途上国国別経済協力シリーズ 中近東編12 チュニジアの経済社会の現状』第2版(1983・国際協力推進協会)』▽『鷹木恵子著『北アフリカのイスラーム聖者信仰 チュニジア・セダダ村の歴史民族誌』(2000・刀水書房)』▽『私市正年著『北アフリカ・イスラーム主義運動の歴史』(2004・白水社)』▽『鷹木恵子編著『チュニジアを知るための60章』(2010・明石書店)』
基本情報
正式名称=チュニジア共和国al-Jumhūrīya al-Tūnisīya/Tunisian Republic
面積=16万3610km2
人口(2010)=1055万人
首都=チュニスTunis(日本との時差=-7時間)
主要言語=アラビア語
通貨=チュニジア・ディーナールTunisian Dīnār
北アフリカ,マグリブ地方の独立国。
北アフリカ中部にあり,北と東は地中海に面し,西はアルジェリア,南はリビアに接している。国土は,北部のテル・アトラス(海岸アトラス)地方,北西部の脊梁山脈地方(最高峰1544m),東部のステップ地帯,南部の砂漠地方の四つに分けられる。北部と北西部は地中海式気候で年間400mmを超える規則的な降雨があるが,南下するにしたがって雨量が乏しくなり,夏の気温が高くなる。
他のマグリブ地方と同様にベルベルが先住民であるが,7世紀以降イスラム化とアラブ化が進んで,現在では南部にわずかのベルベル系住民が残っているだけである。公用語はアラビア語であるが,都市ではフランス語も広く通用する。
近世以降オスマン帝国の属州となったが,17世紀にムラードMurād朝がオスマン帝国の宗主権下で自立し,フサインḤusayn朝(1705-1957)のもとで近代を迎えた。ヨーロッパ列強の圧力に対してベイbey(太守)を頂点とする支配者層は,軍制や官制の改革など一連の近代化政策を実施することによって対抗しようとしたが,それが財政危機を招き,対外従属への道を開いた。フランスは1881年にバルドーBardo条約,83年にマルサMarsa協約を押しつけチュニジアを保護領にした。
保護領体制下でベイは温存されたが,外交,内政ともに政治の実権はフランス政府の任命する統監が握り,また地方政治はフランス系入植者の代表が動かした。チュニジア人は被植民者として政治的権利を奪われていた。
20世紀初頭チュニジア人の政治的地位の向上を求める〈青年チュニジア党〉の運動がおこり,やがて独立運動に発展した。民族運動の高揚期は三つの波に分かれる。すなわち第1の波は第1次大戦後のチュニジア立憲自由党(ドゥストゥールDustūr党)が指導した立憲君主制の憲法を要求する運動,第2の波は,1930年代半ばに,同党を除名され,同名のドゥストゥール党(ブルギーバ派,新ドゥストゥール党ともよばれる)を結成しその指導者として台頭したブルギーバが率いた大衆的な反植民地支配運動,第3の波は第2次大戦後の独立運動である。フランス政府はいずれも弾圧をもって臨んだが,50年代に入ってドゥストゥール党は労働組合ほかの大衆運動,都市テロ,農村ゲリラ戦術によって圧力をかけ,55年6月に内政上の自治,翌56年3月に完全独立を達成した。
1930年代から民族運動を指導したブルギーバは,独立後の選挙でドゥストゥール党を圧勝させ,政敵ベン・ユーセフBen Yūsefを追放して実権を握った。57年にベイ制を廃止し,共和国樹立を宣言して初代大統領に就任した。以来87年にいたるまで31年にわたってブルギーバ体制が続いた。
ブルギーバ体制の特徴は次の4点にあった。第1にドゥストゥール党(1964年に〈社会主義ドゥストゥール党〉と改称)の一党制。他の政党は事実上禁止され,労働組合や経営者団体,官僚機構も党の支配下におかれていた。第2に大統領,党首を兼ねるブルギーバ個人への権力の集中。第3に法治主義,民主主義の形式的な尊重による文民支配。第4に現実主義・中庸主義的な政策志向と実施方式。とくに外交政策では,現実主義,中立主義の立場をとって,小国なりに国際社会に積極的役割を果たそうとした。
こうした特徴はずっと変化していないが,政治の直接担当者の交代にほぼ照応して,政策課題が次のように変化した。(1)50年代のブルギーバ親政期 国家機構の整備と1956年の身分法,57年のワクフ廃止法のような世俗化・近代化政策。(2)60年代のベン・サラーハBen Ṣalāḥa経済相執政期 社会主義の名による工業化,経済改革政策と国権の強化。(3)70年代のヌイラal-Hādī al-Nuwīra首相期 外向型経済開発政策の推進。(4)80年代のムザーリMuḥammad Muzālī首相期 一党制の是正,多党化への道の模索(1981選挙)と開発戦略の見直し,社会政策の実施。
このようなブルギーバ体制に対して,ドゥストゥール党内から出た批判勢力が,〈民主・社会主義運動〉(メスティリ派),〈人民統一運動〉(ベン・サラーハ派)のような新政党を作って選挙で挑戦した(1981)。また労働組合もゼネストによって政府に対抗した(1978)ことがある。だがポスト・ブルギーバ体制を模索する大統領自身とその後継者と目されるムザーリ首相をもっとも脅かしたのは,自然発生的な大衆暴動(1984年1月)やイスラムと結びついた大衆運動である。
ブルギーバは86年にムザーリ首相を更迭して経済政策に通じたスファル首相を,さらに87年10月には内務畑のベン・アリ首相Zine al-Abidine Ben Ali(1936- )を登用して危機を乗り切ろうとした。ところが87年11月にブルギーバ自身が病気廃疾を理由に大統領を解任された。後任の大統領に就任したベン・アリは,政治体制や政策方向についてはブルギーバ時代のものをほぼ継承したが,少しずつ政治体制を改め,88年には与党の名称を〈立憲民主連合〉に改めた。複数政党制という原則は変更しなかったが,89年4月の大統領選挙では対立候補がなく,また国会選挙では与党〈立憲民主連合〉が全議席を独占し,野党の当選者はなかった。イスラム政党として〈イスラム志向運動〉(後に〈ナフダ=復興党〉と改称)が勢力を拡大していったために,ベン・アリ政権は同党を非合法化し,厳しい弾圧を加えた。
チュニジアは交通の要衝であり,古代以来地中海貿易,サハラ越え交易によって栄えた。国内産業の基礎は農業(麦類と羊)であったが,チュニスほかの沿岸都市で手工業の発達がみられた。18世紀以降ヨーロッパ諸国との競合により遠隔地交易が衰退に向かったが,19世紀からのフランス,イタリアの経済的進出によって国内商業と手工業も打撃を受けた。
フランス保護領になって,フランス・イタリア系農業植民者による,ブドウ,オリーブ栽培を軸とした商業的農業の発達,リン鉱石ほかの鉱産資源の開発,鉄道・道路・港湾の整備が行われたが,工業の発達は抑制された。チュニジア人は自給農業,国内商業,手工業など植民者の利害に抵触しない分野での経済活動に従事した。
独立後,鉱山,鉄道など基幹部門の国有化によって公共部門が強化され,経済のチュニジア化が進められた。また政府を主体とする経済開発が行われたが,その戦略は1969年と86年を境に大きく転回した。すなわち69年まではベン・サラーハの主導下で,製鉄所などの重化学工業優先の工業化計画と旧植民者農場を中核とした農業生産協同組合の組織といった社会主義的,内向型の開発戦略がとられた。60年代にも平均4%を超える実質成長率が達成されたが,対外債務の累積と,協同組合化を恐れる自営農と商人のサボタージュにより経済状態が急激に悪化した。それがベン・サラーハ解任の理由である。
これに対して70年代はヌイラ首相のもとで,外貨導入による輸出向け軽工業と観光産業の振興重視という自由主義的,外向型の開発戦略がとられた。同じ時期に小規模だが原油輸出の開始,出稼ぎ労働者の国内送金,外国からの直接投資の増加という条件が重なったために,70年代の成長率は8%に達した。2.6%の人口増加があったにもかかわらず,国民生活は向上したし,工業化の成果が軽工業品の輸出増加という形であらわれた。ところが70年代後半になると,経済成長の負の結果が産業部門間・地域間格差の拡大としてあらわれ,また世界的不況の影響でチュニジア経済も深刻な打撃を受けた。
1985年から86年にかけて,IMFと世界銀行の指導のもとで政府は経済の安定化計画と構造調整政策に取り組んだ。福祉予算や補助金を削減し価格の自由化を進める,国営企業の改革と民営化を推進する,輸入を自由化し国際競争力を強化するために通貨の切下げを実施する,などである。
独立以後のチュニジア経済は大きく変化した。国民総生産159億米ドル,1人当り1740米ドル(1994)というのは中位中所得国の水準にあるが,農業部門の比重は国民総生産,就業人口,貿易構造のいずれからみても大きく低下した。オリーブ油ほかの地中海地方特産農産物は重要な輸出産品であるが,麦類や乳製品は国内で自給できず,輸入に依存する割合が増えている。リン鉱石関連製品(リン酸液,化学肥料)や原油の輸出は輸出総額の1割強の水準に低下し,かわりに工業製品とくに繊維製品の比重が6割を超えるにいたった。貿易収支は構造的に赤字であり,観光収入や出稼労働者の国内送金で国際収支を補っている。植民地時代には貿易相手国,援助供与国としてフランスの地位が圧倒的に高かったが,ドイツやイタリアなど他のEU加盟国の比重が次第に高まっていった。
チュニジアは古くから社会統合が進んだコンパクトな国であり,住民の98%はイスラム教徒でアラビア語を話す。ベルベル系住民,ユダヤ教徒はいるが,深刻なマイノリティ問題はないし,部族問題もない。言語については,アラビア語といっても口語と正則語の差が大きい。独立後はアラビア語化政策を進めるとともに,植民地時代からのフランス語を併用する二言語主義を,文化政策,なかでも教育政策について実施している。
社会統合の障害として,地域主義の弊害が指摘されることがあり,政治家はサーヘル地方(モナスティール,スース),実業家はスファクス地方,文化人はチュニス地方と,出身地方によってエリート層の活動領域が異なっている。だがこうした地域主義よりも経済成長によって拡大した都市と農村の地域格差,富裕な政治・経済エリート層と貧しい都市雑業・農民層の社会格差のほうが,社会統合にいっそう深刻な問題を投げかけている。都市,とくに首都チュニスへの人口集中,それに伴う都市問題(住宅,交通)と農村の過疎化問題が社会不安の原因になっている。また政府の近代化・世俗化政策と経済成長によって,イスラムにもとづく家族制度や伝統的価値観が崩壊し,消費志向の強い生活意識が定着した。
それに対する都市貧困層や失業予備軍である青少年の不満と危機感が,しばしば原理主義的なイスラム運動と結びつき,自然発生的な大衆暴動となってあらわれた(1978,84)。政府は弾圧と妥協によって対抗しようとしているが,人権擁護運動,女性運動のように市民運動も外国のNGO活動と結びついてさかんになっている。
なおアラブ諸国のなかでもチュニジアは女性問題に関する先進国であり,女性の職場進出やベールなしで自由に外出する女性が目だつ。イスラムの家族制度や価値体系と結びついているだけに女性の地位向上が急速に進むことはないが,イスラム的復古主義の風潮のなかでも着実にチュニジア社会は変化している。
チュニジアの歴史は,ベルベル人が定着した先史時代に始まって,古代にはカルタージュ(古称カルタゴ)を中心にフェニキア,ローマ,バンダル,ビザンティンとさまざまな支配者が交代した。7世紀以降のアラブ軍の征服以降,9世紀のアグラブ朝(800-909),10世紀のファーティマ朝(909-1171),10世紀末からのジール朝(972-1148),13世紀からのハフス朝(1228-1574)などの諸王朝が盛衰を繰り返すうちに,アラブ・イスラム国家としての現在のチュニジアが形成された。16世紀にいったんオスマン帝国の支配に入ったが,17世紀半ばにムラード朝のもとで自立し,18世紀からのフサイン朝に引き継がれた。フサイン朝は外圧と近代化をめぐる19世紀の危機を乗り越え,フランスの保護領時代(1881-1956)も存続したが,1957年にブルギーバ大統領をいただくチュニジア共和国の誕生でその生命を終えた。近代以前の歴史・社会については〈マグリブ〉の項も参照されたい。
執筆者:宮治 一雄
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北アフリカの中央に位置し,地中海に面するアラブ国家。正式国名はチュニジア共和国。先住民はベルベル人であったが,現在,アラブ系住民が98%を占め,ベルベル系は1~2%に過ぎない。ムスリムが99%。フェニキア人がカルタゴを築いてから発展し,ローマ,ゲルマン,ビザンツ帝国の支配を受けた後,7世紀にアラブ・ムスリムが侵入し,アラブ化とイスラーム化への道が開けた。オスマン帝国の支配,さらに1881年フランス軍が上陸,その2年後にマルサ協定によりフランス保護領(1883~1956年)となった。1956年独立。57年ベイ制(フサイン朝)を廃し,共和制を樹立。大統領にブルギーバを選出した。一夫多妻制の廃止,ヴェールの排除などの近代化を促進し,アラブ穏健派としてアラブ連盟本部やPLO本部を一時引き受けた。87年内相ベン・アリーが無血クーデタで大統領となった。
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