西アフリカのサバナ地帯にある内陸国。北はマリ、南西はコートジボワール、南はガーナ、トーゴ、ベナン、東はニジェールの6か国と国境を接する。かつてはオートボルタHaute-Volta(ボルタ川上流の意)と称したが、1984年現在の名称に改称した。国名は「高潔な人々の国」の意味。中世以来栄えたモシ王国の領域であるが、現在は乾燥内陸農牧国でめぼしい農産物、鉱産物もなく、1人当り国民総所得(GNI)は430ドル(2007)と低く、外国への労働移民が多い。面積27万4200平方キロメートル(2020)。人口1280万2000(2005推計)、1576万(2009推計)、2048万7979(2019センサス)、人口密度1平方キロメートル当り78人(2020)。首都はワガドゥーグー(人口241万5266、2019センサス)。
[藤井宏志]
国土の大部分は、先カンブリア時代の岩石が削られた平均標高400メートルの高原と標高200~300メートルの河川流域の低地からなる。唯一の例外は、ボボ・ディウラッソの西方に高原より一段高くそびえる古生代の砂岩、片岩からなる山地である。山地の最高峰は749メートルのテナクシ山である。山地の南東麓(ろく)には高原との間に長さ1キロメートル、高さ150メートルの断崖が続いており、アフリカらしいスケールの大きな景観をみせている。高原の地表には固いラテライト皮殻(キラス)が分布しており、農耕を困難にしている。水系には、南西部のコモエ川、南部の黒ボルタ川、赤ボルタ川、白ボルタ川、それに東部のニジェール川に注ぐ河川がある。いずれも雨期と乾期との流量の差が大である。
国土が北回帰線より赤道側にあるため、1年間に二度太陽の高度が最高になる(太陽が頭上を二度通過する)ため、年に二度気温のピークがあるが、4~5月のほうが暑く日中は40℃以上になる日もある。冬が乾期、夏が雨期のサバナ気候であるが、南部は年降水量1000~1400ミリメートルであるのに対し、北部は500ミリメートルと少ない。雨期月数も南部が6~7か月に対し、北部は4か月程度である。気候異変で夏雨が少ない年が続くと干魃(かんばつ)となり、人為的要因もあって1967~1974年など人畜に大きな被害が生じた。冬季にはサハラ砂漠からの砂まじりの冷風ハルマッタンが吹くことがある。植生はワガドゥーグーより南がアカシア、バオバブなどの疎林のあるサバナ、北はとげのある植物が生える草原となっている。南東部には野生動物保護区がある。
[藤井宏志]
首都ワガドゥーグーは、12世紀以来ブルキナ・ファソを領域としたモシ人の連合王国であるモシ王国の首都であった。モシ王国は14世紀にはニジェール川流域までその版図を拡大し、その後マリ帝国、ソンガイ帝国などの興隆で勢力を縮小したものの、近代まで独自の王国を維持してきた。19世紀末この地に進攻したフランス軍は、1896年モシ王国を保護領とした。その後、フランスはこの地を上セネガル・ニジェール植民地の一部としたが、1919年小行政単位に分割、モシ人を中心としたオートボルタも一つの行政単位として区分され、このとき現在の国土の基礎がつくられた。1933年オートボルタは分割され、フランス領スーダン(現在のマリ共和国)、ニジェール、コートジボワールに編入され、これら三国の一部となったが、1947年再度オートボルタとして統合され、1958年フランス共同体内の自治国となり、1960年8月5日オートボルタ共和国として独立した。1984年にブルキナ・ファソに改称。
[藤井宏志]
独立後は、貧しい経済、干魃、特権階層の腐敗などのため民政、軍政を繰り返してきた。ボルタ民主同盟のヤメオゴMaurice Yaméogo(1921―1993)が初代大統領となった(第一共和制)が、1966年1月財政政策の失敗から労働組合がゼネストを行い、この事態を収拾するため軍部がクーデターを挙行し、ラミザナAboubaker Sangoulé Lamizana(1916―2005)中佐が全権を握って大統領に就任した。憲法は廃止され、議会は消滅した。1970年大統領を再任する憲法を発布し、新議会の選挙も行われた(第二共和制)。干魃による経済不安もあって1974年任期切れを前に、ラミザナはふたたび憲法を停止し議会を解散して、軍人10人、文官4人からなる内閣をつくり、自らも首相を兼ね独裁体制を固めた。1977年民政移管のため政党禁止令を解除し新憲法を成立させ、1978年議会選挙を行いラミザナは大統領に当選した(第三共和制)。しかし、1980年11月、ワガドゥーグー軍司令官ゼルボ少佐の率いる軍隊が無血クーデターを行い、憲法を停止し国家進歩再建軍評議会を結成した。その後、1982年11月、ウエドラオゴ少佐がクーデターで同評議会を打倒、さらに1983年8月、前首相サンカラThomas Sankara(1949―1987)がクーデターを起こしてウエドラオゴ政権を倒し、民族革命評議会を結成して議長に就任して、腐敗追放を掲げ急進的な政策を進めた。1987年10月、コンパオレBlaise Compaoré(1951― )中尉がクーデターを起こし現実的な政策に転換した。1991年、人権尊重、三権分立、直接選挙をうたった新憲法が成立し、12月コンパオレが大統領に当選。翌1992年5月の総選挙で、大統領の与党人民民主主義・労働運動が過半数を占めた。1996年2月野党10党が合同し民主進歩会議を結成し、過半数を占め、経済専門家のカドレ・デジレ・ウエドラオゴが首相の座についた。1998年コンパオレが大統領に再選された。中立非同盟であるが、経済援助の関係から欧米諸国との外交も活発である。旧宗主国フランスとは緊密な関係を保つ一方、ロシア、北朝鮮とも外交関係がある。1994年、台湾と外交関係を結び、中国とは断交した。2000年8月に台湾の総統陳水扁(ちんすいへん)がブルキナ・ファソを訪問した。同年国民議会は、2005年の大統領選挙より大統領任期を7年から5年に短縮し、3選を禁止することを可決したが、2005年11月の大統領選挙では3選禁止の規定は適用されず、コンパオレが当選した(3期目)。2008年4月には生活費の上昇、役人の腐敗に抗議するゼネストがあった。
[藤井宏志]
就業人口の91%が農業、牧畜に従事している農牧国である。耕地面積は国土の18.5%(2006)であるが休閑耕地が多い。自給作物にはアワ、モロコシ(ソルガム。イネ科の穀物)、トウモロコシ、米、キャッサバ(南米原産の根茎作物。根を食用とし、タピオカの原料となる)など、商品作物は綿花、ラッカセイ、ゴマ、サトウキビ、タバコなどがあり、おもに雨量の多い南西部で栽培される。牧畜はこの国の経済にとって重要であり、ウシ(876万頭。2007)、ヒツジ、ヤギ、ニワトリなどが飼育されている。年降水量500ミリメートル以下のサヘル気候(サハラ南部サヘル地域特有の雨期の短い半乾燥気候)を示す北東部では、ヒツジ、ヤギ、ラクダを連れた遊牧や移牧が行われている。ダム灌漑(かんがい)による耕地拡大のため外資を導入し、黒・赤・白の三つのボルタ川にダムを構築する計画がある。また、南東部の低湿地を排水し干拓地とする計画もたてられている。
近代工業は輸入代替工業、原料立地の工業を中心に徐々に発達している。食品加工、タバコ、ビール、ソフトドリンクス、自転車、綿紡績、綿織物、植物油脂、精糖などの工業があり、ワガドゥーグー、ボボ・ディウラッソの二大都市のほか、クドグ、バンフォラといった農産物集散地にも工場が建設されている。ほかに金属工芸、皮革加工の伝統工業がある。
鉱産物は、北東部のタンバオにマンガンの埋蔵(1300万トン)があり、年50万トンを産出する。さらに開発を進めるため、1975年、西ドイツ(当時)、アメリカ、フランス、日本の共同出資でタンバオ鉱産会社が設立された。このほか石灰石、錫(すず)、磁鉄鉱、バナジウム、鉛、亜鉛、ボーキサイト、リン鉱石、ウランなどの埋蔵がある。
主要輸出品は、綿花(71.5%、2004)、ラッカセイなどで、主要輸出相手国はガーナ、フランス、スイス、コートジボワールである。主要輸入品は、機械、石油製品、車両、穀物で、主要輸入相手国はフランス、コートジボワール、日本、アメリカである。旧宗主国のフランスと、鉄道で結ばれたコートジボワールとの貿易関係が強い。貿易収支は、輸出が6億6000万ドルに対し、輸入が9億8000万ドル(2007)で、大幅な輸入超過になっており、外国援助と移民の送金に依存している。経済の実権は官僚と大商人が握っている。
鉄道はコートジボワールの都市アビジャンからワガドゥーグーまで1179キロメートルのうち、国内は517キロメートルである。タンバオや東隣の国ニジェールへの延長計画もある。道路総延長1万6000キロメートルのうち常時自動車が通行できるのは564キロメートルである。国際空港はワガドゥーグーとボボ・ディウラッソにある。
[藤井宏志]
ニジェール川流域とギニア湾沿岸との連絡路にあたっていたため、古くから多数の部族が出入りした。現在60の部族に分類できるといわれるが、これらは大きくボルタ系部族とマンディンゴ系部族に分けられる。ボルタ系部族には、ワガドゥーグーを中心に東部へかけて分布し全人口の48%を占める最大の部族モシ、第二の都市ボボ・ディウラッソを中心に分布するボボ、ほかにグルンシ、グルマンシエ、ロビなどの諸族がある。マンディンゴ系部族には、北西部のマルカ、サモ、南部のビサなどがある。このほか、北東部乾燥地域には遊牧、牧畜を生業とするトゥアレグ、フルベなどがいる。村落は小集村をなし、円錐(えんすい)形の屋根をのせた円型住居と高床の穀物倉があり、周辺には穀物畑が広がる。ユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界遺産として、南西部にある「ロロベニの遺跡」(世界文化遺産)、ニジェール、ベナンとともに3か国で登録されている「W・アーリー・ペンジャリ保護地域群」(世界自然遺産)がある。
宗教は、天の主(ナ・ウンデ)や自然を崇拝する部族宗教が75%を占める。イスラム教(イスラーム)はマンディンゴ系部族や遊牧民に多く、信者の割合はモシで20%、ボボで5%程度である。キリスト教はロビで14%、ボボで10%、他は数%程度である。
公用語はフランス語であるが、日常はモシ語など部族語が用いられる。初等教育は6年間で無償だが義務ではなく、就学率は60%(2006)、識字率は28.7%(2007)である。ワガドゥーグーには国立ワガドゥーグー大学がある。
人口増加率は3.2%(2006)である。人口密度は1平方キロメートル当り57.4人(2009推定)であるが、現在の経済力では人口過剰で、ガーナ、コートジボワールへ50万人が主として乾期に季節労働に出ており、このうち20万人が長期滞在している。人口分布は、国土の中央部、黒ボルタ川上流から白ボルタ川上流にかけてのモシ高原が、1平方キロメートル当り50人以上と人口密度が高い。これに次ぐのが南西部ボボ・ディウラッソを含む地域である。東部、北東部は年降水量が少なく、樹木のない草原になっており、人口密度はきわめて低い。都市人口の割合は19.1%(2007)と低いが、近年徐々に増加の傾向にある。
風土病として、南部河川流域に発生するブユが媒介する回旋糸状虫症がある。失明に至ることが多く河川盲目症ともよばれ、河畔の集落が他へ移転する例もある。治療薬を日本が開発した。モシは勤勉、温和で明るい部族であり、労働移民先の国でも重用されている。
[藤井宏志]
日本はタンバオのマンガン鉱開発計画援助にヨーロッパ諸国とともに参加した。貿易では、日本からオートバイ、自動車、建設・鉱山用機械などを輸出し、綿花、採油用種子、木材などを輸入している。砂漠化防止の森林保全にも援助している。文化人類学者川田順造(1934― )のモシ王国、モシ人の研究は国際的に知られている。
[藤井宏志]
『川田順造著『無文字社会の歴史』(1976・岩波書店)』▽『川田順造著『サバンナの博物誌』(1979・新潮社)』▽『岩田拓夫著『アフリカの地方分権化と政治変容』(2010・晃洋書房)』
基本情報
正式名称=ブルキナファソBurkina Fasso
面積=27万2967km2
人口(2010)=1573万人
首都=ワガドゥグOuagadougou(日本との時差=-9時間)
主要言語=フランス語,モシ語
通貨=CFA(中央アフリカ金融共同体)フランFranc de la Communauté Financière Africaine
西アフリカの内陸にある共和国。旧称はオートボルタ。1983年8月の軍事クーデタで政権を獲得したサンカラThomas Sankara(1947-87)が,84年8月に国名をブルキナファソ(〈高潔な共同社会〉の意)と改めた。
国土は,長い乾季(9~4月)と短い雨季(5~8月)のある,まばらに木の生えた熱帯草原サバンナに位置する。コートジボアールに接する南西部は降水量も多く(年間約1300mm),オウギヤシが自生し,イネ(オリザ・グラベリマ種,オリザ・サティバ種),ヤムイモも多く栽培されている。マリ,ニジェールに接する北東部では降水量は少なく(年間約500mm),とげのあるマメ科の灌木が生えた半砂漠性の草原で,農作物もトウジンビエが主である。中央部は,バオバブ,タマリンド(マメ科),パルキア(マメ科),カリテ(シーアバターノキ。アカテツ科)など住民の食生活にとっても重要な高木が多く野生する草原で,農作物はトウジンビエやモロコシにヤッコササゲが混作されている。
標高約300mの中央台地,南西部の700mを超す山地,隣接するガーナの台地に約100mの断崖で限られている南部の台地のほかは,土地の起伏は乏しい。黒ボルタ,赤ボルタ,白ボルタという3本のボルタ川の上流のほかは,水流や沼も少ない。気温は平均して27~28°Cであるが,とくに北部では季節,昼夜による温度差が激しく,乾季の夜は10°C近くまで下がる一方,雨季直前の日中には,日陰で40°Cを超すことも多い。地質はきわめて古い先カンブリア時代に属し,地表は熱帯アフリカの他の地方と同様,農耕には不向きなラテライト(紅土)に覆われている。人口の都市集中に伴う都市住民の燃料用の野生樹の濫伐と,ヤギ,羊など小家畜の放牧による灌木の食い荒らしから土地の保水力が低下し,降雨の不順によって凶作がひきおこされることが多い。
鉱物資源としては,1966年まで細々と採鉱を続けていたプラーの金鉱山がいったん閉山した後,80年から再開されたほか,北東部のタンバオのマンガン鉱床(埋蔵量1200万t,含有率55%)が,採鉱・運搬の基礎施設の欠如のため未開発のまま残されている。国産の綿花をおもな原料とする紡織工業,食品加工や自転車組立てなどの軽工業が若干あるほか,めぼしい工業はない。
野生動物の減少が著しく,南部のポー,東部のアルリーを中心に,象,ライオン,野牛などの保護地区が設けられている。
ブルキナファソの住民は,ボルタ語族に属する言語をもつモシ族(約300万人),ロビ族およびダガリ族(約44万人),ボボ族(約42万人),グルンシ諸族(約33万人),グルマンチェ族(約28万人)等が過半数を占め,次いで西アトランティック語族に属する言語をもつフルベ族(約66万人),マンデ語族に属する言語をもつサモ族(約14万人),ビサ族(約13万人)から成る。とくに西部地方は小部族集団に分かれており,部族の単位のとり方にもよるが,ブルキナファソ全体で60以上の部族集団があるとみられる。住民の大部分は焼畑農耕に従事し,ロバ,犬,羊,ヤギ,鶏,ホロホロチョウなど若干の小家畜,家禽も飼育している。セネガルからチャド湖周辺地方まで,西アフリカのサバンナ地帯の広い地域で牛の牧畜を行っているフルベ族も,ブルキナファソに多数居住しているが,定住して農耕を行ったり,農耕民と混血している者も多い。また,北に隣接するマリ起源で,もとマンデ系の言語をもっていたが,モシ族が形づくっていた王国に浸透してモシ語を話すようになったヤルシ族は,大部分イスラム教徒で,木綿の機織,長距離交易を行うことに特徴をもった集団である。植民地化以前の社会組織の面では,モシ族,グルマンチェ族のように,最高首長である王から地方首長,村落の首長まで序列化された集権的な社会があった一方で,ロビ族,ダガリ族に代表されるような,血縁集団や家族が社会の単位として最も重要な非集権的な社会もある。
住民の人口構成で注目すべきことは,人口密度(平均29.6人/km2)の地方差が大きいこと(中央部のモシ族,カセナ族の居住地では80人/km2の密度をもつ一方で,北部のフルベ族や東部のグルマンチェ族の地方では10人/km2にも達しない),常住人口以外の約150万人が出稼ぎのため国外に一時または長期に移住していることであろう。出稼ぎ先は南のコートジボアールが80%を占めるが,ブルキナファソの生活条件の厳しさ,コートジボアールの首都アビジャンなど大都会の生活への憧れが基となっているとみられる。国内でも,とくに青年層の農村離脱,都市への知人縁者をたよっての半失業状態での流入の増大は社会問題として深刻化している。
西アフリカの内陸国としてはイスラム教徒が少なく,住民の約30%といわれるが(1970年代),その大部分は北部地方で,そのほかでは10%にも達しない地方も多い。キリスト教徒は約10%,そのうちプロテスタントは約1%といわれている。これら名目上の信徒も,同時に在来の信仰(部族により異なるが,多くは,万物の力の根源である不可視の神を信じ,祖霊や精霊を神と人間の媒介者としてこれに儀礼を通じて働きかける形をとる)をもちつづけていることが多い。ボボ族,セヌフォ族,ロビ族,グルンシ諸族の一部で,仮面や呪物などの木彫が多く作られているが,隣接するマリやコートジボアールにくらべて一般に造形表象は乏しい。他方,モシ族,グルマンチェ族などの大型の球形のヒョウタンに皮を張った太鼓,グルンシ諸族,ロビ族などの小型の木の笛はじめ,楽器音によるメッセージの伝達が盛んである。
考古学的遺物はきわめて乏しい。19世紀末のフランスによる植民地化以前は文字記録がないため,過去の探求は主として口頭伝承によらざるをえない。部族の移動・形成・変遷史は,最近部族集団ごとに復元の試みがなされているが,全貌が明らかになるにはほど遠い状態にある。一般的にいって,集権化されていない社会組織をもち,軍事的にも弱小な農耕民(セヌフォ族,ロビ族,ニョニョンシ族など)が古くから居住し,おそらく14~15世紀に南部(現在のガーナ北部)から騎馬の戦士集団に先導された住民の移動があって,中部のニョニョンシ族などを併合して一連の集権的なモシ王国が形成されたと考えられる。モシの王朝は枝分れして南部・中部・北部の三つの主要な王朝の支配が成立し,それぞれの王朝の分裂・移動・分枝の独立などによって大小さまざまな王国が興亡をくりかえした。
1887-89年,フランスの軍人バンジェLouis Gustave Bingerがニジェール川からギニア湾にいたる探検の途中,オートボルタ各地を訪ね,その後95-96年にブーレPaul Voulet中尉の率いるフランス軍がオートボルタに侵入し,モシの王を屈服させて保護領の協定を結んだ。その後1901年にロビ族が征服され,現在の地域は04年にフランス領オー・セネガル・ニジェール植民地の一部に編入されたが,19年,オートボルタ植民地としてまとめられた。オートボルタは,宗主国フランスが収奪すべき資源や産物に乏しかったが,頑強で勤勉な住民は人的資源として評価され,隣接地域の開発の便をはかるために,32年にはコートジボアール,フランス領スーダン(現,マリ共和国),ニジェールの隣接3植民地に分割帰属させられ,47年にオートボルタとして再構成された。58年フランス共同体内の自治共和国となり,60年8月独立した。
初代大統領モーリス・ヤメオゴMaurice Yameogoは,放漫財政と個人的ぜいたくがもとで国民の不満を買って66年クーデタにより失脚し,サングーレ・ラミザナSangoulé Lamizana中佐指揮下の軍隊が4年間国政を担当した。70年複数政党が候補を出す総選挙によって民政に移行し,ラミザナ将軍は国民投票で大統領に選ばれたが,政府内部や政府と国会の対立が激化したため,74年国会を解散,憲法を停止する非常措置をとった。77年国民投票で新憲法が採択され,翌78年大統領(ラミザナ)と複数政党の国会議員が選出され,国政は再び民政に移された。しかし,相変わらずの経済的停滞に対する社会の不満と軍内部の対立とから,80年セイ・ゼルボSaye Zerbo大佐が指揮するクーデタが起こり,ラミザナ大統領は監禁され,憲法は停止,国会と政党は解散させられた。しかし政権は安定せず,82年J.B.ウェドラオゴが軍事クーデタを起こしたものの,83年再び軍内部のクーデタでT.サンカラが新政権を樹立し,84年国名をブルキナファソと改めた。
執筆者:川田 順造 サンカラは,外貨節約,食糧の国内自給,産業の活性化を目的とした急進的改革を実行した。しかし一連の緊縮政策にもかかわらず経済状態はいっこうに好転せず,住民の不満が増大,一方で内部の反発もつのった。87年10月,サンカラの第一の腹心とみなされていたコンパオレBlaise Compaoré(1951- )による軍事クーデタが勃発,大統領は射殺され,コンパオレ政権が成立した。コンパオレ政権はサンカラ政権の急進主義を修正して現実路線を取り,91年6月には複数政党制や大統領制を柱とする新憲法案が国民投票で採択された。同年12月の大統領選は野党がボイコットし低投票率となったが,コンパオレが当選。92年5月には複数政党制で初の総選挙が実施され,与党・人民民主主義機構・労働運動(ODP・MT)が圧勝した。その後何度かの首相交代,内閣改造を経て,政情は安定している。
執筆者:編集部
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西アフリカの内陸国。15世紀中頃からモシ人の王国が分裂,興亡を繰り返した。ほかにロビ,ボボ,グルンシ,フルベなどの民族が住む。19世紀末フランス保護領,1960年,オートヴォルタという国名で独立。83年,サンカラが軍事クーデタを起こし,翌年,現国名に変更。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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