右大臣藤原宗忠の日記。家名の中御門と官名の右大臣より各1字をとって《中右記》と呼ぶが,宗忠自身は《愚林》と称していたらしい。宗忠は博学をもって鳴り,政務に練達し,日記も朝儀について詳細な記事を載せており,後世において故実典礼の典拠として重視された。記事は1087年(寛治1)より1138年(保延4)に及ぶが,中間を一部欠く。宗忠自身の記すところでは,1120年(保安1)当時すでに160巻にものぼっており,最終的にはおそらく250巻ほどの膨大な日記であったと思われる。陽明文庫,宮内庁書陵部に古写本を伝える。また本記の記事を事項別に分類編纂した,平安末期書写の《中右記部類》が書陵部,天理図書館などに12巻伝来するが,これももとは30巻以上あったと推定される。ほかに東山御文庫に《政部類記》,書陵部九条家本中に《法事部類記》などと称する本記の部類記があり,また《口言部類》と題する部類記の写本も伝わる。《増補史料大成》所収。
執筆者:吉岡 真之
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平安末期の公卿(くぎょう)藤原宗忠(むねただ)(1062―1141)の日記。原名は『愚林』。記主宗忠が京の中御門富小路(なかみかどとみのこうじ)邸に住み、右大臣に上って「中御門右府(うふ)」と称されたので、その日記を『中右記』とよぶ。白河(しらかわ)院政開始期の1087年(応徳4)正月元日、26歳のときから筆を起こし、鳥羽(とば)院政期の1138年(保延4)2月29日、77歳で出家受戒するまで、52年間にわたって書き継がれた。その全容は200巻を超えると推定される膨大・克明な記録で、現在まで百数十巻が伝来し、『増補史料大成』七冊(臨川(りんせん)書店)に収録されている。記主宗忠は朝儀・政務によく通じ、弁官・納言(なごん)などの顕職を歴任して大臣に至ったので、記事の内容は、その公事(くじ)の次第(しだい)を詳細に記して後世に資する模範的な公家(くげ)日記であるが、それとともに、院政時代の諸事件や、院と近臣、源平の武士、南都北嶺(ほくれい)の僧徒らの動き、大田楽、熊野詣(くまのもうで)などの世相、検非違使(けびいし)による検断の実態、造寺造仏の盛行や貴族の家の私生活のありさまなど、当時を知る第一級の史料を多く含んでいる。
[戸田芳実]
『戸田芳実著『中右記』(『日記・記録による日本歴史叢書 古代・中世編5』1979・そしえて)』
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…その間,在官60年,白河,堀河,鳥羽,崇徳の4朝に歴仕し,朝儀・公事に精通し,勤勉温厚な人柄でとくに白河上皇,堀河天皇に重用され,関白藤原忠実には顧問として信頼された。幼時より外祖父実綱をはじめ,紀伝道日野家の講説を受けて文章道に励み,《作文大体》《韻華集》《白律韻》などを著し,五十数年にわたる内容豊かな日記《中右記》を残した。【橋本 義彦】。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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