日本の近代植物学の先駆。名古屋の医家に生まれ、幼時、本草(ほんぞう)学者の水谷豊文(ほうぶん)に博物学を学んだ。初め家業を継いでいたが、1826年(文政9)長崎から江戸に上るシーボルトを水谷豊文らとともに熱田に迎えて会見し影響を受けた。翌年江戸に出て宇田川榕菴(うだがわようあん)に接し採集をともにしたのち、長崎にシーボルトを訪れ、ツンベルク著の『日本植物誌』Flora Japonicaを与えられ、以後、医業のかたわらこの書の研究に没頭し、これを基礎とし、リンネの植物分類式を訳出して付録とした『泰西本草名疏(たいせいほんぞうめいそ)』2巻を著した。これは日本への近代植物分類学の初の紹介である。医家としては種痘を広めた功績がある。またしばしば博物会を開催し、『救荒食物便覧』(1837)を著し、知識の普及に努めた。1877年(明治10)東京大学理学部員外教授に選ばれ、1881年教授となる。その前年スウェーデン王立学士院から銀牌(ぎんぱい)を贈られ、1888年学位制制定とともに初の理学博士となった。
[佐藤七郎]
幕末・明治期の蘭方医,植物学者。名は舜民,清民,幼名は左仲,字は圭介,戴尭(たいぎよう)。通称圭介,号は錦窠(きんか),花繞書屋,十二花楼という。名古屋呉服町の医者西山玄道の次男。のち,父の旧姓伊藤に復する。本草を水谷豊文,蘭学を藤林泰助,吉雄常三,野村立栄に学ぶ。1827年(文政10)長崎でシーボルトに学ぶ。名古屋の本草家の同好会嘗百社(しようひやくしや)の研究活動の中心となる。著書《泰西本草名疏》4巻3冊(1829)は,シーボルトからもらったC.P.ツンベリーの《日本植物誌Flora Japonica》(1784)の学名に和名を付したものである。付録下で,リンネの分類法を,日本で最初に紹介したことに意義がある。幕末,西欧植物学の紹介のほか,種痘の普及,コレラ対策,大砲の鋳造,硝石の研究などで活躍した。維新後,東京大学理学部員外教授,正教授となり,88年日本最初の理学博士となる。明治期の植物学,物産学の研究,発展に貢献した。
執筆者:矢部 一郎
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