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中国,清朝第11代の皇帝。在位1875-1908年。〈こうしょてい〉とも読む。姓は愛新覚羅(アイシンギヨロ),名は載湉(さいてん),廟号は徳宗,諡(おくりな)は景皇帝。光緒は年号。父は道光帝の第7子醇親王奕譞(えきかん),母は西太后の妹。同治帝が嗣子なく死ぬと権勢維持をはかる西太后により,皇位継承の原則を破って数え4歳で皇帝に擁立された。幼帝のもとで西太后が垂簾聴政をとり,1887年(光緒13)皇帝親政に移って後もその力は虚名に過ぎなかった。しかし清仏戦争や日清戦争敗北など清朝の危局に際し,皇帝周辺には西太后派に反対する翁同龢(おうどうわ)らの帝党が形成され,彼らは康有為らの唱える変法維新を利用して実権の確立をはかった。皇帝は98年〈明らかに国是を定める〉の詔を発して戊戌(ぼじゆつ)変法を開始したが,政策を実現するに足る実力を欠き,たちまち西太后一派の反撃を受けた。西太后の発動した戊戌政変により皇帝は北京城内の池の小島に幽閉され,西太后の訓政が再開された。さらに西太后は皇帝を廃して新帝を立てようとしたが反対が多く,溥儁(ふしゆん)を大阿哥とすることで妥協した。その後皇帝は義和団事変に際し西安に同行され,北京帰還後も政局に関与しえなかった。1908年皇帝と西太后はともに病を得たが,西太后の死の前日に皇帝が死に,毒殺が噂された。
執筆者:並木 頼寿
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1871~1908(在位1874~1908)
清の第11代皇帝。名は載湉(さいてん),廟号は徳宗。父は道光帝の第7子醇親(じゅんしん)王,母は西太后(せいたいこう)の妹。4歳で即位。1887年(17歳)まで西太后が摂政。親政後も西太后の厳しい監視が続いた。日清戦争後国内に変法自強の主張が高まったのに乗じて,98年康有為(こうゆうい)らを登用して内政の改革を企てたが,西太后を中心とする保守派に弾圧された(戊戌(ぼじゅつ)の政変)。その後は幽閉されたまま病死した。
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…中国,清朝第11代の皇帝。在位1875‐1908年。〈こうしょてい〉とも読む。姓は愛新覚羅(アイシンギヨロ),名は載湉(さいてん),廟号は徳宗,諡(おくりな)は景皇帝。光緒は年号。父は道光帝の第7子醇親王奕譞(えきかん),母は西太后の妹。同治帝が嗣子なく死ぬと権勢維持をはかる西太后により,皇位継承の原則を破って数え4歳で皇帝に擁立された。幼帝のもとで西太后が垂簾聴政をとり,1887年(光緒13)皇帝親政に移って後もその力は虚名に過ぎなかった。…
※「光緒帝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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