安土桃山時代の武将。加賀藩始祖。犬千代,孫四郎,又左衛門尉,筑前守,加賀大納言と称する。尾張愛知郡荒子に生まれ織田信長に近侍し,1551年(天文20)以来諸征服戦に従軍,59年(永禄2)信長の勘気を受けて蟄居(ちつきよ)したが69年許されて家督を継いだ。赤母衣衆となり,75年(天正3)越前平定後武主(ものぬし)柴田勝家のもとで佐々成政,不破光治と府中三人衆として施政に当たり,81年能登に転封,翌年本能寺の変の後,越中の前線から撤退して石動山天平寺の僧徒や温井,三宅等の反乱を討伐し,翌年賤ヶ岳の戦に従軍したが豊臣秀吉に下った。柴田氏の滅亡後,加賀金沢城主となって越前北ノ庄の丹羽長秀とともに北陸を制する大大名となった。そして85年秀吉の越中征伐後,長男利勝(利長)が越中3郡を領し,ここに北陸の雄藩としての基礎を定めた。
豊臣氏と前田氏とは織田部将時代の同輩であり,秀吉の室北政所(高台院)と利家の室芳春院とは幼なじみ,しかも三女まあは秀吉の妾,四女豪と六女菊は秀吉の養女という親族同様の関係にあった。秀吉の信頼はとくにあつく,86年筑前守の受領を許され,87年の九州征伐では京都・大坂の守護,90年の小田原征伐には北関東から進撃して奥羽征伐にも従い,92年(文禄1)の文禄の役では名護屋に駐留して徳川家康とともに秀吉の朝鮮渡海を諫止,93年秀頼誕生の後には傅(もり)役に任ぜられ,96年(慶長1)秀吉・秀頼父子の参内に供奉して従二位権大納言に叙任され,豊臣氏に対し重大な責務を負うこととなった。このころ秀吉は前田邸に臨み,また利長は98年従三位権中納言に叙任,秀頼擁護の態勢が固められ,利家は五大老の一員となった。同年秀吉が没すると利家は秀頼とともに大坂城に入って後見し,家康と比肩しうる重鎮として五大老,五奉行の間で重視された。家康と相互に訪問して政局の緩和に努めたが,病に冒され,99年閏3月3日大坂城内で没した。利家の死によって政局は急速に緊迫化し,石田三成の失脚,利長の加賀帰国,関ヶ原の戦の勃発へと展開した。
執筆者:岩沢 愿彦
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(河村昭一)
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安土(あづち)桃山時代の武将、加賀藩初代藩主。従(じゅ)二位、権大納言(ごんだいなごん)。尾張(おわり)国(愛知県)荒子城主前田利春(としはる)の次男。幼名犬千代。1551年(天文20)織田信長に仕え、元服して孫四郎、のち又左衛門(またざえもん)と改めた。青年のころは血気盛んで武勇を誇り、「槍(やり)の又左衛門」と異名をとった。そのため信長の怒りに触れ、放禄(ほうろく)されたこともあるが、美濃(みの)の斎藤征伐、桶狭間(おけはざま)、姉川(あねがわ)、長篠(ながしの)など、信長の主要な戦争に従軍して功をあげ、2450貫の荒子城主から近江(おうみ)国(滋賀県)長浜、越前(えちぜん)国(福井県)府中に進出、さらに81年(天正9)には能登(のと)国(石川県)七尾(ななお)城主となり、能登一国23万石余を領有した。その翌年、本能寺の変で信長が急死し、羽柴(はしば)秀吉と柴田勝家(しばたかついえ)との抗戦となるや、巧みに対処して秀吉につき、柴田氏の滅亡後、加賀国2郡を加増されて尾山城(金沢市)に移った。84年小牧の役には、徳川家康に応じて越中(えっちゅう)国(富山県)から進寇(しんこう)した佐々成政(さっさなりまさ)を末守城で破り、越中4郡のうち3郡を加増された。90年(天正18)の小田原征伐に参戦、奥羽検地に参与し、文禄(ぶんろく)の役には肥前国(佐賀県)名護屋(なごや)に在陣した。のち五大老の一人として秀頼(ひでより)の哺育(ほいく)に任じたが、98年(慶長3)秀吉の病死後、台頭する家康と反家康派の間にあって両者の協調に努めた。しかし翌年閏(うるう)3月3日病死。晩年は老練、温厚で人望厚く、領内では優れた治績を残し、加賀藩の基礎をつくった。
[若林喜三郎]
『岩沢愿彦著『前田利家』(1966・吉川弘文館)』
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1538~99.閏3.3
織豊期の武将。利昌の子。尾張国愛知郡荒子村の土豪の家に生まれる。はじめ織田信長に仕え,戦功により赤母衣(あかほろ)衆に加えられる。1575年(天正3)越前国を与えられた柴田勝家の目付役として同国府中に赴き,81年8月能登一国を与えられ大名格となる。本能寺の変後は83年の賤ケ岳(しずがたけ)の戦で豊臣秀吉方につき,加賀国北半を与えられ,85年には越中国にも領地をえた。秀吉との関係は尾張以来の親密なもので,秀吉の全国統一後は豊臣政権を支える最有力大名の地位にあった。98年(慶長3)8月の秀吉死後は,遺児秀頼の後見役として大坂城に入り,徳川家康と以後の体制作りに努めたが翌年病没。
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…安土桃山時代の用語を採録する《日葡辞書》では同義語として〈うしろまき〉を掲げ敵を背後から包囲すること,または攻めることと解釈している。1584年(天正12)9月,前田利家が能登末森城を救援し,優勢な佐々成政の軍を撃破した戦闘などは成功した事例として名高い。【岩沢 愿彦】。…
…成政は上杉景勝方と抗争をくりかえし,翌年6月には上杉方の越中侵攻の拠点魚津城を陥落させたが,本能寺の変のため成政は富山城に入って上杉方と抗争を続け,越中の制圧にあたった。83年越前北庄の柴田勝家を滅ぼした豊臣秀吉は成政の越中支配を認めたが,成政は秀吉と同心する前田利家と対立したため,83年秀吉に攻められてこれに降伏,所領は新川郡のみとされ,さらに翌々年肥後に転封された。婦負・射水・礪波の3郡は前田利勝(利長)に,新川郡は直轄地として利家に預けられ,前田氏の支配が始まった。…
…豊臣秀吉の遺言状案では〈おとな五人〉といわれ,1598年(慶長3)9月の起請文写しでは五奉行と合わせて十人の衆と呼ばれている。豊臣政権最高の施政機関で,構成は徳川家康,前田利家,毛利輝元,宇喜多秀家,上杉景勝からなり,家康と利家とが上首であった。1595年(文禄4)の起請文前書によれば,家康は坂東の法度置目公事篇の儀を,輝元と小早川隆景とは坂西のそれを委任されているし,秀吉の遺言状によれば利家は秀吉の盟友であって豊臣秀頼の傅(ふ),宇喜多秀家は豊臣氏と一体であった。…
…
[原因]
1598年8月の豊臣秀吉死後の政権は,家康を筆頭とする五大老と三成を筆頭とする五奉行によって運営されることとなった。秀吉の遺言によれば,家康,前田利家,毛利輝元,上杉景勝,宇喜多秀家の五大老が秀頼を後見し,〈御法度,御置目〉などの天下の政治は長束正家,石田三成,増田長盛,浅野長政,前田玄以の五奉行が合議によって推進し,太閤蔵入地その他の中央政権を支える財政の〈算用〉は,家康,利家の2人が総攬することになっていた。このことは,8月から9月にかけて五大老,五奉行の間で交換された多数の誓書によって確認され,秀吉の死で緊急の課題となった朝鮮からの撤兵も,この体制によって実施された。…
…七尾ともいう。1581年(天正9)畠山氏の七尾城に入った前田利家は,翌年七尾湾に面する所口村に小丸山城を計画,旧七尾城下の町人を移して新城下町を経営しようとしたが,83年金沢城へ移ったことから中止された。しかしこの地の軍事的・経済的重要性から町づくりは続けられ,元和期(1615‐24)には町奉行が置かれ所口町のほかに能登全域の治安と流通をも支配した。…
…こののち越後上杉氏の占領支配がはかられたが,織田信長と結んで能登奪回に執念を燃やす畠山旧臣の長連竜(つらたつ)の攻略と上杉方に帰服していた温井景隆(かげたか),三宅長盛らの離反にあい,80年ごろに至り挫折した。【東四柳 史明】
【近世】
1581年能登国は織田信長の勢力下に入り,鹿島郡の半分が長連竜に給され,残りは信長の部将菅屋長頼,福冨行清,前田利家が支配した。同年8月,信長は前田利家に能登一国を知行させ,長氏はその与力となった。…
※「前田利家」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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