大化前代の政治的中心地は、古墳の分布などから千代川下流域の鳥取平野の南端山麓部であったと考えられ、とくに中期大型古墳が
「国造本紀」には志賀高穴穂朝御世(成務天皇朝)に「彦坐王児、彦多都彦命」が国造に定められたとある。延暦三年(七八四)成立と推定される伊福部臣古志(伊福部家文書)には、第一六代の伊其和斯彦宿禰が成務天皇によって国造に任ぜられ、そのとき天皇から与えられた大刀等は神宝として「伊波比社」に祀ると記している。また第二〇代若子臣のとき允恭天皇から気吹部臣(のちに伊福部臣となる)の姓を初めて賜ったともある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
旧国名。因州。現在の鳥取県の東半部。
山陰道に属する上国(《延喜式》)。律令制下の因幡国は巨濃(この),邑美(おうみ),法美(ほうみ),八上(やかみ),智頭(ちず),高草,気多(けた)の7郡50郷からなり,国府は千代川の支流袋川流域の法美郡稲羽郷に置かれた。国内中央部を北流して日本海にそそぐ千代川流域周辺は,大化前代以来因幡国の政治・文化の中心地をなしており,この地域には多数の前方後円墳が築造され,条里制遺構も顕著で,国府周辺の国分寺をはじめ古廃寺跡も多数存する。墾田長国造難磐(かついわ)の協力を得て営まれた東大寺領高庭(たかば)荘は,同川の下流左岸,湖山池との間の低湿地に位置した。国内の式内社は46社50座の多数を数え,国内唯一の大社である国府周辺の宇倍(うべ)神社は11世紀末ごろ因幡国一宮の地位を占めた。歴代国司のうちには万葉歌人大伴家持や《時範記》の筆者藤原時範等があり,京都因幡堂縁起で知られる橘行平は1007年(寛弘4)国衙官人,百姓等に訴えられ,解任された。因幡国における国司苛政上訴闘争の展開を示すものである。
→因幡氏
因幡国における中世的郡郷制の再編は11世紀末期に至って実施され,これとあわせてかつての八上郡が八上・八東(はつとう)両郡に分割された。宇倍神社が因幡国一宮としての地位を確立したのはこの直後のことと思われる。中世の因幡では,伯耆,出雲など他の山陰道諸国と同様,郡構成は古代のそれと基本的に異なるところなく,郡は単なる地域区分表示たるにとどまった。中世の因幡ではまたその地形が山がちであったこととも関連して,荘園の発達が大きく制約され,国衙領の占める比重は著しく大であった。八東,智頭,気多3郡には一つの荘園の存在も確認することができない。中世荘園は主として日本海沿岸平野部と千代川中下流域に分布しており,そのおもなものは石清水八幡宮領宇治蒲生荘・滝房荘,賀茂社領土師荘・賀茂荘,高野山領石田荘,相国寺領岩井荘,青蓮院門跡領吉岡荘,皇室領宇倍荘・服部荘などである。国衙領では保および別符の多いこと,古代の和名抄郷名をそのまま中世にひきついだものの多いことが大きな特徴をなしている。中世因幡国のこうした特徴は,古代から中世への社会変革が比較的緩慢で変化に乏しい歴史過程として達成されたことを示唆している。それは例えば,智頭郡佐治郷の豪族尾張氏が佐治郷の開発を契機として佐治郷司,佐治郷地頭に補任され,また開発領主佐治四郎が切明大明神として長く村民の手でまつられたことからもうかがわれるように,各地に勢力を張る在地領主層の相対的自立性(割拠性)とそこでの長期にわたる共同体的諸関係の存続をうながすことにもなったものと考えることができる。在地領主層の割拠性,孤立分散性は,また強力な豪族的領主層の成立を阻止する条件ともなっていたようで,南北朝内乱期以後新たに入部してきた守護山名氏による守護領国制支配が急速に展開することとなった。鎌倉期の守護については,同末期の海老名維則を除いて具体的な人名を確定することができず,守護所の位置も定かでない。
南北朝内乱の間に急速な成長をとげた山名氏が,因幡国に対して直接的な影響力を持ちはじめたのは,1337年(延元2・建武4)石橋和義に代わって山名時氏が伯耆国守護職を得てからのことであり,以後再三にわたる入京などの軍事行動を通じて,因幡国人層をその勢力下にとりこんでいったものと思われる。この山名氏が因幡国守護職を最終的に確立するのは63年(正平18・貞治2)9月ころのことであり,以後守護職は山名時氏から三男氏冬を経て代々その子孫に相伝された。山名氏の守護所は文和年間(14世紀半ばころ)時氏が巨濃郡岩常に二上山城を築き,室町中期の1466年(文正1)勝豊がこれを高草郡布施の天神山城に移したといわれる。この間,守護山名氏は国衙支配機構を掌握し,半済や守護請,あるいは段銭,諸公事の賦課等を通じて国内全所領および国人・土豪層に対する支配と統制を強めた。荘園の中には守護および守護被官人(国人層)によって押領されるものが多く,また南北朝期以後室町幕府・守護権力と結んだ禅宗寺院領が新たに拡大される傾向を示した。しかし,守護山名氏による領国支配も,その内実をみると決してそれほど安定していたわけではない。たとえば若桜(わかさ)鬼ヶ城矢部氏,私部城毛利氏,二上山城三上氏,吉岡・防巳尾城吉岡氏,鵯尾城武田氏,半冊城伊田氏,鹿野城志加奴氏など,比較的有力な国人層が各地に割拠する状況はなお続いており,むしろ徐々に成長をとげてきた名主百姓等に対する安定した支配を求めて,地域ごとの家臣団編制が進められたことにより,その自立性・割拠性はいっそう強化される傾向にあった。
室町・戦国期の山名氏は,布施天神山城そして鳥取城へと拠点を移して,国内の統一と支配の安定化につとめたが,惣領但馬山名氏との一族内部の対立に加え,雲州尼子氏の攻撃を受けて統制力を失い,1573年(天正1)以後芸州毛利氏の支配下におかれることとなった。尼子・毛利両戦国大名による因幡国支配は,それが一時的ないし短期間であったことにも規定され,在地支配を貫徹させるまでに至らなかった。80年および翌81年の2回にわたる豊臣秀吉軍の攻撃を受けて鳥取城は落ち,若桜鬼ヶ城矢部氏以下の国人・土豪層もそのほとんどがこの過程で没落した。秀吉はすでに国外に亡命していた山名豊国にかえて,腹心の宮部継潤を鳥取城に入れ,高草・八上・邑美・法美4郡4万3000余石を知行させた。また,気多郡1万3000余石を鹿野城主亀井茲矩(これのり),智頭・八東2郡2万石を若桜鬼ヶ城木下重賢,そして巨濃郡1万石を浦富桐山城垣屋光成にそれぞれ与え,宮部継潤を惣頭領として国中の成敗をとりしきらせた。91年(天正19)全国的な太閤検地の一環として検地が実施され,中世成立期以来の荘園制支配体制は最終的な解体をみた。
執筆者:井上 寛司
1600年(慶長5)関ヶ原合戦後,徳川家康は西軍に味方した大名を改易・転封させ,鳥取城には池田長吉,若桜鬼ヶ城には山崎家盛を配置,鹿野城主の亀井茲矩は東軍であったので,加増された。このうち,鳥取城を修築,城下町を整備した池田長吉,東南アジアの地に幕府の公認の朱印船を3度も派遣し海外貿易を行った亀井茲矩のことが有名である。17年(元和3)姫路城から鳥取城に移封させられた幼少の大名池田光政は,伯耆・因幡両国32万石を支配することになったが,32年(寛永9)岡山城主で従兄弟の池田光仲との領地の交換を命ぜられ転封した。これ以後因・伯両国は光仲を初代とする鳥取池田氏の支配下におかれ,明治維新にいたった。1871年(明治4)廃藩置県で鳥取藩はほぼ同じ領域が鳥取県となったが,76年廃止,島根県に併合,さらに81年もとのごとく鳥取県が再置された。近世の因幡国の表高は14万9742石5斗,実際には1701年(元禄14)に17万0729石7斗9升1合,1869年には18万4790石2斗3合と増加した。武士以外の農工商の人口は1749年(寛延2)に12万6321人,1869年に12万7297人と微増する。物産には古くから,南部山地の木材・薪炭・和紙・木地物,北部海岸の魚介類,山地寄りのタバコ・茶・蚕種などがあったが,国産といわれるほどのものはなかった。幕末ごろの〈因州分産物之品出来凡積帳〉には,上記のほか邑美郡の葉藍,岩井郡の櫨(はぜ)実,八上郡の実綿・楮(こうぞ)・焼物,八東郡の針金・子牛・扱苧(こぎそ),智頭郡の扱苧・干蕨(ほしわらび)・子牛・骨折柳(こりやなぎ)類,高草郡の木綿・実種・葉藍,気多郡の木綿・楮・伊平(いたら)貝・蓑などがあげられ,移出されるものもあった。
執筆者:山中 寿夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
鳥取県東半部の旧国名。山陰道八か国の一つ。東を但馬(たじま)、西を伯耆(ほうき)、南を播磨(はりま)・美作(みまさか)に接し、北は日本海に面している。南部には中国山地の連峰があり、山地が多い。中央部を千代(せんだい)川が貫流し、下流に鳥取平野が開け、海岸には砂丘が発達している。鳥取平野の南東にある国史跡梶山(かじやま)古墳は彩色壁画をもち、このほかにも線刻壁画をもつ古墳が数多く存在し、装飾古墳は因幡の古墳文化を特色づけるものである。『延喜式(えんぎしき)』によると因幡国は、巨濃(この)、法美(ほうみ)、邑美(おうみ)、八上(やかみ)、智頭(ちず)、高草(たかくさ)、気多(けた)の7郡50郷であった。『和名抄(わみょうしょう)』によると法美郡に稲羽(いなば)(稲葉)郷があり、この郷に国庁、国分寺などが置かれた(鳥取市国府町)。『万葉集』最後の一首は国司大伴家持(おおとものやかもち)がこの地で詠んだものである。このころ高草郡湖山池(こやまいけ)の東岸に東大寺領高庭荘(たかばのしょう)が開かれた。鎌倉時代には、佐々木高綱(たかつな)、海老名維則(えびなこれのり)が、建武(けんむ)新政では名和長年(なわながとし)、南北朝期には山名時氏(やまなときうじ)が守護となり、以後山名氏が因幡国を領有した。中世後期には漆、鉄、鋳物が産物としてあげられる。戦国末期に山名氏は本拠を邑美郡久松山の鳥取城に移し、以後この城下が因幡の中心地となった。1580年(天正8)豊臣(とよとみ)秀吉に攻められて山名氏は滅び、因幡には宮部、亀井、垣屋、木下の諸大名が入った。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いにより、池田、山崎、亀井の諸大名が分割統治したが、1617年(元和3)池田光政(みつまさ)が因幡・伯耆32万石の領主として播磨(兵庫県)から因幡に移り、さらに1632年(寛永9)光政が備前(びぜん)岡山に移され、そのあとに従弟(いとこ)の池田光仲が備前から入った。以後、光仲の子孫が相伝えて幕末に至った。近世産業の中心は米作であるが、ほかに銅、生蝋(きろう)、椀(わん)、折敷(おしき)、紙などがある。学者大名池田冠山(かんざん)(定常。鳥取池田の分家鉄砲洲(てっぽうず)家1万5000石)、蘭学者(らんがくしゃ)稲村三伯(さんぱく)、歌人香川景樹(かげき)らはいずれも因幡の人である。
1871年(明治4)廃藩置県によって、因幡・伯耆両国の鳥取藩はそのまま鳥取県となったが、76年島根県と合併した。鳥取士族の再置運動の結果、81年ふたたび鳥取県が置かれ、現在に及んでいる。
[福井淳人]
『『鳥取県史』全18巻(1969~82・鳥取県)』▽『『鳥取県郷土史』(1932・鳥取県/復刻版・1973・名著出版)』▽『山中寿夫著『鳥取県の歴史』(1970・山川出版社)』▽『徳永職男他著『ふるさとの歴史・江戸時代の因伯』上下(1978、80・新日本海新聞社)』
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山陰道の国。現在の鳥取県東半部。「延喜式」の等級は上国。「和名抄」では巨濃(この)・法美(ほうみ)・邑美(おうみ)・八上(やかみ)・智頭(ちず)・高草・気多(けた)の7郡からなる。平安末期に八上郡から八頭(はっとう)郡が分立。国府は法美郡(現,鳥取市国府町)におかれ,東西に国分尼寺・国分寺,北に一宮の宇倍神社がある。「和名抄」所載田数は7914町余。「延喜式」では調は絹・帛,庸は白木韓櫃(からびつ)・綿,中男作物として紅花・海石榴油(つばきあぶら)・平栗子(ひらくりのみ)・火乾年魚(ひぼしのあゆ)など。南北朝期以降は山名氏の影響下にあり,政治の中心は鳥取に移る。江戸時代には伯耆国とともに鳥取藩池田氏による一円支配をうけた。1871年(明治4)廃藩置県により伯耆国とともに鳥取県となる。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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