改訂新版 世界大百科事典 「宇都宮氏」の意味・わかりやすい解説
宇都宮氏 (うつのみやうじ)
中世の下野国の豪族。出自については,下毛野(しもつけぬ)氏,中原氏,藤原氏など諸説がある。家伝では大織冠藤原鎌足の後裔で関白藤原道兼の流れをくみ,道兼の曾孫宗円が前九年の役のとき下野国に下向し,宇都宮座主となったのにはじまるという。下野一宮の神主を世襲して下野国中央部に勢力をもち,宗円の孫朝綱は平氏に属し,さらに後白河院の北面をつとめたとされる。朝綱はのちに源頼朝に従って各地で戦功をあげ,宇都宮社務職を安堵されて宇都宮氏発展の基礎を築いた。以来,宇都宮氏は有力御家人の一人として代々鎌倉幕府で重きをなし,伊予,美濃の守護に任じられ,また評定衆,引付衆に列した。蹴鞠,歌道にすぐれた家柄であるが,とくに和歌は〈宇都宮歌壇〉として知られている。さらに1283年(弘安6)に景綱が制定した《宇都宮家式条》は,もっとも古い武家家法として注目されている。南北朝内乱では,はじめ公綱が紀・清両党を率いて南朝方に属し,各地で活躍したが,その後,子の氏綱は北朝に属して旧領を安堵され,さらに上杉憲顕に代わって一時上野,越後の守護にも任じられた。1380年(天授6・康暦2)基綱が小山義政に殺されたりしたが,室町時代には関東八館の一つとして,また京都扶持衆の一員として幕府と深い結びつきをもち,北関東に勢威をふるった。戦国争乱の渦中で1549年(天文18)尚綱が那須高資に討たれて宇都宮氏の勢力は一時衰退したが,57年(弘治3)広綱が北条氏康らの援助で再興した。90年(天正18)豊臣秀吉の小田原北条氏攻略に際し,国綱は小田原に参陣して秀吉から本領安堵をうけたが,97年(慶長2)石高隠匿のとがによって改易を命じられて没落した。なお,宗円の孫信房が鎌倉前期に豊前国の地頭職を与えられて以来,この鎮西宇都宮氏の系統は筑後の守護に任じられるなど,九州各地に庶流を分出した。
執筆者:田代 脩
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報