キリシタンの戦国大名。素性は、その父隆佐(立佐)(りゅうさ)とともに明らかでないが、隆佐の次男として生まれ、早くキリシタンの洗礼を受けたらしい。その教名が「アゴスチーニョ」(アウグスチヌス)であり、当初弥九郎(やくろう)のちに摂津守(せっつのかみ)、通常「ツノカミ」と称せられたことは内外の史料が一致している。1585年(天正13)羽柴秀吉(はしばひでよし)(豊臣秀吉(とよとみひでよし))の紀州征伐において水軍の長として活躍し、まもなく小豆(しょうど)島、塩飽(しわく)諸島、室津(むろつ)の支配者となる。1587年九州征伐に参戦、バテレン追放令に際しても高山右近(たかやまうこん)のように処罰されなかったが、1588年には肥後(熊本県)南半に移封され、宇土(うと)城に鎮した。翌1589年、天草の五人衆が反逆したのを鎮圧、以後秀吉が没するまで文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)の役に主役をつとめる。1592年(文禄1)、第一軍の将として朝鮮の釜山(ふざん)に渡り、ソウルを陥れ、さらに平壌まで占拠したが、明(みん)国の征服を不可能と考え、早くより明の沈惟敬(しんいけい)と交渉してこの戦いを講和に持ち込もうとした。しかしその策謀が功を奏せず、慶長の役となり、ふたたび朝鮮南部に出陣した。秀吉の没後、石田三成(いしだみつなり)らとともに徳川家康らに対抗したが、関ヶ原合戦に敗れ、慶長5年10月1日、京都六条河原において斬首(ざんしゅ)された。
[松田毅一 2018年3月19日]
『松田毅一著「小西立佐一族」(『近世初期日本関係南蛮史料の研究』所収・1967・風間書房)』▽『フロイス著、松田毅一・川崎桃太訳『フロイス 日本史』全12巻(1977~1980・中央公論社/中公文庫)』
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安土桃山時代の武将,キリシタン大名。通称弥九郎,内匠頭・摂津守。受洗名アゴスチーニョ。代々薬種業を営んだ堺の豪商の出自で,父は小西隆佐,兄は如清。はじめ備前の宇喜多氏に仕え,のち豊臣秀吉のもとで〈塩飽(しあく)より堺に至るまでの船舶を監督〉し〈海の司令官〉と呼ばれる(イエズス会日本年報)。島津攻略,肥後一揆鎮圧の功により,1588年(天正16)肥後半国24万石を領し宇土城主となる。92年(文禄1)文禄の役には加藤清正とともに先陣をつとめ,釜山城などの攻撃に参加。さらに明使沈惟敬(しんいけい)との和平交渉にあたる。97年(慶長2)慶長の役にも出兵したが,秀吉の死とともに撤退。1600年石田三成にくみして関ヶ原の戦に臨んだが,徳川家康方に敗れて捕虜となり,京都六条河原で斬られた。信仰厚く,高山右近を庇護し,癲病治療・孤児救済など慈善事業につくし,その死は教団では殉教とされた。
執筆者:谷 直樹
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(村井早苗)
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1558~1600.10.1
織豊期の武将。立佐(りゅうさ)の次男。弥九郎。日向守・摂津守。洗礼名アゴスチイノ。和泉国堺生れ。豊臣秀吉に仕え,1581年(天正9)に播磨国室津(むろのつ)を支配し,船奉行として各地に働き,85年には小豆島など2万俵を与えられた。四国・九州攻めに従い,88年肥後国宇土14万石を領した。女婿宗義智(よしとし)とともに対朝鮮交渉を命じられ,文禄の役では平壌まで進攻し,明との講和を画策した。交渉の末,秀吉の降表を偽作し秀吉の日本国王冊封という結果を得たが,96年(慶長元)大坂での講和が決裂したため,翌年慶長の役に出陣。関ケ原の戦では西軍として戦い,京で斬首。高山右近につぐ教会の保護者であった。
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…そしてその制圧によって肥後の近世化は一気に推進されることになる。【工藤 敬一】
【近世】
[所領配置]
1588年佐々成政が国衆一揆の責を負って改易されたあと,肥後は上使衆によって検地(太閤検地)が行われ,ついで北部半国(9郡19万5000石)に加藤清正,南部半国(4郡14万6300石)に小西行長が封ぜられ,旧領を安堵された球磨郡(2万2100石)の相良長毎(ながつね)と3人で肥後国を三分することとなった。加藤清正は隈本(くまもと)城に入ったが,領内は国衆一揆で土豪層が排除されており,静謐(せいひつ)であった。…
…当時の朝鮮の正規軍は弱体であったが,慶尚道,全羅道を中心とする民衆の義兵組織や,圧倒的な明の援軍の到着によって補給路が絶たれ,渡海した兵員も各地に分散されたうえ一戦ごとに死傷者を出して手薄となっていた。この間,小西行長と沈惟敬(しんいけい)(明の遊撃将軍)との間ですすめられていた和議交渉も,戦局の推移につれて二転,三転した。日本側の条件は出陣諸将の間の思惑の相違からまとまらず,秀吉自身も,当時の国際関係(明帝国を中心とする冊封体制)についての認識に欠けるところがあった。…
※「小西行長」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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