デジタル大辞泉
「市川房枝」の意味・読み・例文・類語
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いちかわ‐ふさえ【市川房枝】
- 婦人運動家、政治家。愛知県出身。平塚らいてうらとともに新婦人協会を創立、婦人参政権獲得、婦人労働問題のために活躍。戦後、参議院議員。明治二六~昭和五六年(一八九三‐一九八一)
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市川房枝
いちかわふさえ
(1893―1981)
政治家、社会運動家。明治26年5月15日愛知県に生まれる。愛知女子師範学校卒業後、小学校教員、新聞記者を経歴。1918年(大正7)上京、1919年友愛会婦人部に入り、婦人労働者大会で活躍。1920年平塚らいてうらと新婦人協会を設立した。1921年渡米しアメリカの女性問題、労働問題を研究。1924年帰国してILO(国際労働機関)東京支局に4年間勤務。また同年婦人参政権獲得期成同盟会(1925年婦選獲得同盟と改称)を結成、1940年(昭和15)の解散までこの運動に取り組んだ。この間、市政浄化運動、選挙粛正運動などにも力を入れた。第二次世界大戦期には女性運動のリーダーとして国民精神総動員運動、大政翼賛会の活動に従事した。戦後、新日本婦人同盟(1950年日本婦人有権者同盟と改称)を組織、一時公職追放にあったが、解除後1950年(昭和25)会長となった。1953年参議院選挙に無所属で出馬し当選。以後1959年、1965年と連続当選、1962年には第二院クラブを結成。1971年落選したが、1974年(全国区第2位)、1980年(全国区第1位)当選。この間、理想選挙、政治浄化の先頭にたって活躍。「実践一路」の人であった。昭和56年2月11日死去。
[北河賢三]
『『市川房枝自伝 戦前編』(1974・新宿書房)』▽『『市川房枝集』1~8巻、別巻(1994・日本図書センター)』▽『「市川房枝というひと」刊行会編『市川房枝というひと』(1982・新宿書房)』▽『児玉勝子著『覚書・戦後の市川房枝 市川房枝伝・戦後編』(1985・新宿書房)』▽『市川ミサオ著、市川房枝記念会編『市川房枝おもいで話』(1992・日本放送出版協会)』▽『菅原和子著『市川房枝と婦人参政権獲得運動――模索と葛藤の政治史』(2002・世織書房)』
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市川 房枝
イチカワ フサエ
- 専攻分野
- 婦人問題
- 肩書
- 参院議員(第二院クラブ),元・日本婦人有権者同盟会長
- 生年月日
- 明治26年5月15日
- 出生地
- 愛知県中島郡明地村(現・尾西市)
- 学歴
- 愛知女子師範〔大正2年〕卒
- 経歴
- 小学校教員、名古屋新聞記者を経て上京。大正8年平塚らいてうらと新婦人協会を結成。10〜13年米国視察。同年帰国、ILO東京支局に入る。同年より婦人参政権獲得運動に専念して中心的指導者の役割を果たした。昭和8年東京婦人市政浄化連盟を組織。16年大政翼賛会調査委員、17年大日本婦人会審議員。戦後は20年新日本婦人同盟(のちの日本婦人有権者同盟)を設立、25年会長。参院選東京地方区から28年以降3回連続当選、46年には落選したが、49年には金権政治に反対する青年たちに推され、全国区で193万票を集めて2位で復活、55年には全国区で278万票を獲得、トップ当選している。39年に第二院クラブを結成、カネのかからぬ理想選挙を訴え、政界浄化の実践運動の先頭に立った。著書に「私の政治小論」「私の婦人運動」などの他、「市川房枝自伝」(2巻)がある。平成5年生誕100年の記念事業として展示会、講演会などが尾西市や名古屋、東京で開催される。
- 没年月日
- 昭和56年2月11日
出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報
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市川 房枝
イチカワ フサエ
大正・昭和期の政治家,婦人運動家,評論家 参院議員(第二院クラブ);元・日本婦人有権者同盟会長。
- 生年
- 明治26(1893)年5月15日
- 没年
- 昭和56(1981)年2月11日
- 出生地
- 愛知県中島郡明地村(現・尾西市)
- 学歴〔年〕
- 愛知女子師範〔大正2年〕卒
- 経歴
- 小学校教員、名古屋新聞記者を経て上京。大正8年平塚らいてうらと新婦人協会を結成。10〜13年米国視察。同年帰国、ILO東京支局に入る。同年より婦人参政権獲得運動に専念して中心的指導者の役割を果たした。昭和8年東京婦人市政浄化連盟を組織。16年大政翼賛会調査委員、17年大日本婦人会審議員。戦後は20年新日本婦人同盟(のちの日本婦人有権者同盟)を設立、25年会長。参院選東京地方区から28年以降3回連続当選、46年には落選したが、49年には金権政治に反対する青年たちに推され、全国区で193万票を集めて2位で復活、55年には全国区で278万票を獲得、トップ当選している。39年に第二院クラブを結成、カネのかからぬ理想選挙を訴え、政界浄化の実践運動の先頭に立った。著書に「私の政治小論」「私の婦人運動」などの他、「市川房枝自伝」(2巻)がある。平成5年生誕100年の記念事業として展示会、講演会などが尾西市や名古屋、東京で開催される。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
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市川房枝 (いちかわふさえ)
生没年:1893-1981(明治26-昭和56)
婦人運動家,政治家。愛知県の農家に生まれ,愛知女子師範学校卒業。小学校教員,新聞記者を経て1919年友愛会に入り,労働婦人問題にとりくんだ。同年末新婦人協会結成に参画して実際運動にのりだし,21年には渡米して苦学しつつ婦人問題の研究に励んだ。帰国後はILO東京支局につとめ,24年婦人参政権獲得期成同盟会を結成,以後は婦人参政権獲得のため運動ひとすじの道を歩んだ。戦後は一時公職追放になったが,45年に新日本婦人同盟(現,日本婦人有権者同盟)を組織し,女性の政治教育,地位向上に献身した。理想選挙を唱え,53年から5回参議院議員に当選。
執筆者:江刺 昭子
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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市川房枝
いちかわふさえ
[生]1893.5.15. 愛知
[没]1981.2.11. 東京
女性運動家,政治家。1920年3月28日,上野精養軒で新婦人協会を平塚らいてうらと発会させ,以来女権拡張のために活躍した。1924年久布白落実(くぶしろおちみ)らとともに婦人参政権獲得期成同盟会を発足(1925婦選獲得同盟と改称)。戦後いち早く 1945年11月に新日本婦人同盟を結成し会長となり,同年 12月の新選挙法公布により女性参政権が認められると,1950年には日本婦人有権者同盟の会長に就任,1953年参議院議員となり,売春防止法などの成立のために活躍した。選挙では常に法定費用をはるかに下回る費用で当選を重ね,清潔な選挙で知られた。1971年の選挙では落選したが,1974年には全国区で 193万票を得て復活した。(→婦人運動)
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市川房枝 いちかわ-ふさえ
1893-1981 大正-昭和時代の社会運動家,政治家。
明治26年5月15日生まれ。大正8年友愛会にはいり,9年平塚らいてうらと新婦人協会を設立,婦人参政権運動をすすめる。戦後,昭和20年新日本婦人同盟(現日本婦人有権者同盟)を結成。28年参議院議員(当選5回)。昭和56年2月11日死去。87歳。愛知県出身。愛知女子師範(現愛知教育大)卒。著作に「市川房枝自伝」(戦前編),「私の婦人運動」。
【格言など】やはりもう一度女に生まれて,婦人運動をしなければならないね
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市川房枝
いちかわふさえ
1893.5.15~1981.2.11
大正・昭和期の婦人運動家・政治家。愛知県出身。愛知女子師範卒。1920年(大正9)平塚らいてうなどと新婦人協会を創設。21年渡米し,アリス・ポールなどの女性参政権運動に感銘をうける。帰国後,婦人参政権獲得期成同盟会(婦選獲得同盟)を結成,以後婦人参政権運動の中心となった。第2次大戦後は参議院議員を24年半務め,理想選挙の実現に努力。75年(昭和50)からは性差別撤廃条約のために,国内の婦人運動の連帯に尽力した。「市川房枝自伝」戦前編。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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市川房枝
いちかわふさえ
1893〜1981
婦人運動家
愛知県の生まれ。愛知女子師範卒。小学校教員・新聞記者を経て上京。1920年平塚らいてうらと新婦人協会を設立。同年日本労働総同盟に入り,婦人労働運動で活躍し,渡米帰国後婦人参政権獲得期成同盟会を組織した。敗戦後,理想選挙をかかげ,'53年から参議院議員に連続して5期当選した。
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
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市川 房枝 (いちかわ ふさえ)
生年月日:1893年5月15日
大正時代;昭和時代の政治家;婦人運動家。参議院議員;日本婦人有権者同盟会長
1981年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
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世界大百科事典(旧版)内の市川房枝の言及
【新婦人協会】より
…大正時代に婦人の社会的・政治的地位の向上を求めて活動した婦人団体。1919年(大正8)11月[平塚らいてう]が呼びかけ,[市川房枝],[奥むめお]らが応じて,20年3月発会式。男女の機会均等,家庭の社会的意義の闡明(せんめい),婦人・母・子どもの権利擁護を綱領に掲げ,最初の運動として,女子の政治的活動を封じている治安警察法5条の改正と花柳病にかかった男子の結婚制限問題にとりくんだ。…
※「市川房枝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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