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鎌倉後期の得宗(とくそう)被官。法名杲円(こうえん)、通称左衛門尉(さえもんのじょう)、第9代執権北条貞時(ほうじょうさだとき)の乳母(うば)の夫。得宗御内人(みうちびと)の最有力者である頼綱は、8代執権北条時宗(ときむね)の舅(しゅうと)として幕政を牛耳(ぎゅうじ)っていた有力御家人(ごけにん)安達泰盛(あだちやすもり)としばしば衝突していた。1284年(弘安7)貞時の執権就任とともに頼綱は内管領(うちかんれい)の要職につき、翌85年11月には、泰盛の子宗景(むねかげ)に謀反の企てありと中傷して、安達氏以下多くの御家人を倒し(霜月(しもつき)騒動)、幕政の実権を握った。正応(しょうおう)6年4月貞時によって子息宗助とともに滅ぼされた。
[黒田弘子]
(湯山学)
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鎌倉後期の武士。左衛門尉。得宗御内人(とくそうみうちびと)。執権北条時宗の時代に安達(あだち)泰盛と幕政を二分したが,1285年(弘安8)の弘安合戦(霜月騒動)により御家人(ごけにん)勢力を代表する泰盛を滅ぼした後は,若年の執権貞時を擁して幕政を専断した。しかし,93年4月22日,貞時は討手を経師ヶ谷の頼綱邸にさし向け,頼綱,次男飯沼助宗をはじめとする一族は滅びた。
→平禅門(へいぜんもん)の乱
執筆者:稲葉 伸道
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?~1293.4.22
鎌倉後期の武将。北条氏得宗家の被官。盛綱の子。盛時の子とする説もある。北条時宗・同貞時時代の内管領(ないかんれい)・侍所所司を兼ねる。時宗の死後,得宗家被官の頭首として,また新得宗貞時の乳母(めのと)の夫としてその補佐にあたるが,貞時の外祖父で御家人勢力の代表者安達泰盛と幕政の主導権をめぐり対立。1285年(弘安8)霜月騒動で泰盛を滅ぼす。以後幕府の実権を握るが,93年(永仁元)その専横を嫌う貞時に滅ぼされた(平頼綱の乱)。法名果円。
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… このころ,北条氏得宗家の権力掌握につれて,その家臣団は御内(みうち)として一定の勢力を得,幕政に関与することが多くなり,一般御家人は外様(とざま)と呼ばれて,しだいに力を失いつつあった。外様御家人の代表のごとき地位にあった泰盛は,北条泰時以来の伝統を守り,得宗貞時を中心として北条一門,有力外様御家人の会議の上に幕政を運営しようとする立場をとったが,御内人勢力の代表内管領平頼綱は,ひたすら得宗御内の利益と権力を追求する立場をとったので,対立が生じていた。両人ともに貞時に讒言(ざんげん)し合ったが,妻が貞時の乳母であった頼綱のほうが有利で,泰盛の息宗景が源家を詐称して将軍の地位をうかがったとする頼綱の讒言が奏功し,ついに85年11月17日,泰盛は一族与党とともに貞時の討手に滅ぼされた。…
…内管領はこの御内人の勢力を背景に,経済的には広大な得宗領を基礎として勢威を振るった。はじめて内管領とよばれた平頼綱は,得宗貞時の乳母の夫として貞時を養育した関係もあって,大きな力を幕政に及ぼし,1285年(弘安8)には政敵の安達泰盛を倒して,10年にわたって幕府の実権を握った。その専権のゆえに頼綱が貞時に滅ぼされると(平禅門の乱),かわって内管領には長崎氏がなり,高綱・高資と続く。…
…1246年(寛元4)の寛元の乱(宮騒動,北条光時の乱ともいう)で一門に対する惣領権を確立し,47年(宝治1)の宝治の乱(宝治合戦)で三浦氏を倒した北条氏はモンゴル襲来のころには得宗(北条氏の当主)専制確立の途上にあり,その家臣団は,一般御家人の外様(とざま)に対して,御内人(みうちびと)と呼ばれて一定の勢力となり,幕政にも関与する傾向を見せていた。84年(弘安7)4月北条時宗が死に,貞時が執権と得宗の座につくと,その乳母の夫の平頼綱は,御内人勢力の代表として内管領(うちかんれい)となり,ひたすら得宗御内の利益と権力の強化を追求する立場をとろうとした。これに対抗したのが,外様御家人の代表安達泰盛である。…
…内乱期に上野に支配力を及ぼしていた秀郷流藤原姓の足利氏が滅亡し,その跡を追って安達氏が守護として入部してきた。安達氏は玉村,片山,飽間,白井,岡本氏などを家臣として,上野の支配を行ったが,1285年(弘安8)に執権北条貞時の臣平頼綱と争い滅亡した(弘安合戦)。これ以後,上野守護は北条得宗家のものとなり,安達氏関係所領には,北条氏や幕府の関係者が地頭に任命された。…
…また得宗,一門の諸国守護職占取も進み,とくにモンゴル襲来を契機として西国,九州に増加し,全国の過半数を占めるにいたった。 85年(弘安8)11月の弘安合戦で外様の代表安達泰盛一族とその与党が滅びるや,内管領平頼綱の専権が樹立された。この時点を得宗専制成立と見る説が有力だが,すでに御内専制に変質していたともいえる。…
…鎌倉時代,幕府の実権を握った北条氏得宗家の被官が御内人(みうちびと)と呼ばれたのに対して,将軍家に直属する一般御家人は外様御家人と呼ばれた。鎌倉時代後期には御内人と外様御家人の対立が深刻となり,前者の代表である平頼綱と後者の代表である安達泰盛が衝突した事変は,1285年(弘安8)の弘安合戦として著名である。室町時代以後は大名の家格を示す呼称として用いられ,外様衆とは幕府と疎遠な関係にある大名の称号となった。…
…鎌倉時代の北条氏嫡流(得宗)の有力被官家。桓武平氏。北条泰時の被官関実忠の弟平盛綱が長崎を称したのにはじまる。盛綱は1234年(文暦1)尾藤景綱のあとをうけて北条泰時の家令となり,経時・時頼にも仕えた。その子頼綱は続く時宗・貞時の家令としてその権勢を極め,85年(弘安8)には幕府御家人の最有力者安達泰盛を謀殺(弘安合戦)。しかしその専権は長くは続かず,93年(永仁1)貞時の攻撃をうけて一党は没落(平禅門の乱),かわって頼綱の弟(一説には甥)長崎光綱の子孫が台頭した。…
…1293年(永仁1)4月22日,得宗北条貞時の差し向けた討手によって得宗御内人(みうちびと)であり得宗家の内管領(うちかんれい)である平頼綱,および次男飯沼助宗ら一族90余人が滅ぼされた事件。《保暦間記》は頼綱が助宗を将軍に立てようとした陰謀が直接の原因であるとするが,これは貞時の頼綱打倒の口実であろう。…
※「平頼綱」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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